私を縛る「私」という名の檻

2016-10-11 17:20:16 | 抽象的話題

 

今年に入って、人工知能関連の話と南直哉の対談が私に数多くのインスピレーションを与えてくれ、今までバラバラに提示していた記事が一つのテーマへと収斂していくだけでなく、上手く説明できなかった部分を多少クリアに提示することができるようになった。今回掲載した茂木健一郎との対談(というか茂木が南にインタビューしているような体になっているが)もまた、どこまでが論理的に詰められてどこからが価値判断(選択の問題)なのかなど、南の語りには誤魔化しがなく非常にクリアカットな内容で感銘を受ける部分が多々あった。この中で「本当の自分」というものの虚構性が縁起という観点から論じられていたが、その点について少し書いてみたいと思う。

 

私は人工知能に関する対談を元に「イミテーションゲーム」という一連の記事を書いてきた(2344.55まで書いたが20161011現在は未完)。これらの記事とかつての「嘲笑の淵源」などから、「人間なんて所詮そんなものだから、人工知能が発達すれば人間が『人間的』と思っていることを含め化けの皮がはがれるだろうし、その日が来るのが愉しみだ」と私が思っていると予測する読者がいるかもしれない(この件に関しては、「好き嫌いはコントロールできる」ということやそれに付随する人間観に関する次の動画を参照)。なるほどそれは半分正しい。しかしながら、もし仮にその予測が否定される状況になれば、それはそれで興味深いとも思っているという意味では半分正しくない(そこには、自分の思い込みや驕慢が否定される愉悦がある。随分昔に書いた「俺を殺せ」とはそういうことだ)。この感覚がどの程度理解されるものかわからないが、どちらにしろパラダイムシフトが訪れるという意味において、私にとっては等しく「おもしろい」状況なのである。以下では、自分がそのような考え方を持つに至った理由を書いてみようと思う(ちなみに「宗教と思索」などにもその断片を書いている)。なお、これは「嘲笑の淵源」の続編として、いずれ段階を踏んで書こうと思っていた話である。

 

高校の時、私のクラスは女子31名・男子10名という構成で、しかも三年間クラス替えがなかった。多少知識がある人ならわかると思うが、こういう状況では間違っても「ハーレム」的な状況になりえず、女子の意見が強くなり、男子は大々的に「値踏み」される側となる(余談だが、マイノリティとしてまなざされる側に回ったこのような経験ゆえに、「臨死!江古田ちゃん」であるとか「アラサーちゃん」の内容がむしろ自然に受け入れられたりする素地ができたのかもしれない)。そういう中において、男子は自然と固まる。それは仲が良いとかいうことではなく、身を守るために仕方なくそうしていたのだ(それを示す典型的なエピソードとして、高3の二学期にもなって男子生徒の一人が別の一人を呼び出して喧嘩をするという事があり、途中でこの「共同体」は名実ともに崩壊した。私の見る限り、その二人はそこまで極端に反りが合わない様子はなく、片方が特別に性格や行動に問題があるということもなかったので、もしやり過ごせる程度に距離を取れる状況であったりクラス替えがあったなら、ここまでの悲喜劇的なカタストロフには陥らなかったように思われ、閉鎖空間の病理を痛感することとなった)。ゆえにそこでは、話題についていけないと積極的に排除されるわけではなくても、かなり居心地の悪い状態になる。私の場合はまさにそれだった(今思うとかなり偏屈になっていた時期でもあったが、その背景についてはまた別に書くことにしたい)。

 

そういう状況であれば、当然話題を合わせることを考えるわけだが、すると積極的に見たくないものなどにも触れなくてはならない。とはいえ、なんか合わないなあとか面倒くさいという認識で済ませ、具体的な行動に移すことはなかった。すると溝が広がっていくわけで、だんだん適当なことも言ってられなくなった。いよいよどうしようかという段になって「自分の見たくないものや聞きたくないものに触れるなんて、それは本当の自分だろうか」と思ったわけである。ただ、そこで明確に「本当の自分」というふうに言語化したおかげで、ある疑問が頭に浮かんだ。では「本当の自分」とは何だろうか?と。たとえば、私は入院するような大病をしたことがない。ましてや、戦争への参加などを含め生きるか死ぬかの極限状況に陥ったことがあるわけでもない。つまり、今まで自分だと思っていたものが簡単に崩れ去るかもしれない状況というものを全く経験してない。にもかかわらず、どうして私は「本当の自分」などというものを措定できるのか?そう考えてみると、「本当の自分」などというものは完全に非論理的な思考であることに気づいた。正しくは、それを「本当の自分」だと思う私がいるだけなのだ。だからせいぜい、今回の件は「私はそれをすることが不快と感じている」ぐらいのものでしかない。だったら、どんどん広げてみればいいじゃないか(まあ犯罪をやるわけじゃないしね)。触れてみた上で取るに足らないと思えば、その時に捨てればいい。そう考えて今まで知らなかった音楽なども聞いてみるようになった(ちなみにスピッツやB'zなどを聞くようになったのはこの時からである)。

 

以上のようにして、今の私のある種「底が抜けたような」思考や行動が始まった。ある意味で「自分」という枠組みを信用しないので、内省してもせいぜい自慰識にしかならんというわけで常に外部に可能性を求め続けるようになり、それが映画風俗などへの探求へとつながることになった(ちなみに、旅行の際あえて偶然に任せる部分を多く残すのは、変性意識状態を作り上げある意味での「自己破壊」をする狙いもある。ただこれに人を付き合わせる道理はないので、大抵単独行動になるわけだが)。ちなみに、この「底が抜けたような」感じを踏まえると、以前言われていた「冗談で言っているように聞こえない」とか、「退屈な、あまりに退屈な」で言われた評価も理解できる。おそらく俺の発言や態度が、「その可能性もゼロではない」という余地を常に含んでいるように聞こえるのだろう(つまり、見るからに凶暴とかそういうことではなく、どこにリミッターがあるのかがわからないという戸惑い)。

 

私が「本当の自分」という観念の呪縛から逃れた過程と結果は以上の通りだ。とはいえ、その変化は人との関わりによるものと私は考えておらず、また気づいたのは経験ではなく論理的思考の結果であると捉えている(言い換えれば、他人に「気づかせてもらった」とは思っていない)。それゆえ私には対談で出てくるような縁起の視点は希薄であるだけでなく、思考の根幹をリバタリアニズム的思考が占め、また自己の可能性を掘削する上で他人は自己を拡張するための「情報」や「デバイス」という認識が色濃いのである(それは個人主義ではあっても「孤人主義」ではない。その違いを示すために「『自己中心的』ということ」「対岸の火事に同情し、隣家のボヤを放置する阿呆」などの記事も書いたりしている)。

 

ここには、他者を自己と対等の存在とみなさない驕慢が潜んでいる。そのことを自覚しているがゆえに、前述のような人工知能と人間の変化に関する自分の予測が外れても、それはそれで「おもしろい」と考えているのである。

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