喧嘩両成敗から見る日本中世:面子と共同体、復讐の連鎖とその抑止

2020-08-04 13:14:34 | 歴史系

 

 

 

 

 

 

「笑われた→殺す」、「殺された→集団で報復」という、現代的には驚きを禁じ得ない殺害理由と復讐の連鎖の構造・・・いやはや「喧嘩両成敗」という発想がどのように出てきたのか、こういった中世の具体的事例を見るとよくわかるわ。

 

ちなみに、今回どうしてこれらの動画を紹介したかというと、日本人の日本人観(あるいは自国民に対する観念)というものは、「創られた伝統」よろしく現在を過去に無批判に遡及されがちであって、例えば役人にたいする理想像として出された憲法十七条にある「和を以て尊しとなす」に言及して「日本人とは調和を好むものである」と論じるなどはその典型であろう(この一例として、「現代に凶悪犯罪が増えているのは日本的要素が減ったためだ」などと統計データも無視した噴飯ものの言説が少し前までしばしば語られていたが、それに違和感を覚えない人は、まさに具体的な記録を元にして様々な戦前の少年犯罪に言及した『戦前の少年犯罪』を読むとよい)。

 

しかしこういった争いの事例を見れば、「和を以て」どころかその有様は(現代的に見れば)ヤクザの因縁や抗争と同類のものであり、中世の日本人たちがいかに我々と違う世界観を生きていたのかがよくわかる(注)。もちろん、これをもって「中世人は野蛮であった」と断じるのは早計だ。先述の「喧嘩両成敗」の成立自体もそうだが、そもそも争いがここまで拡大するには武家や寺社はもちろん、惣村のような共同体のあり方が関係しているし、その特異さは「国質」や「郷質」といった、近代司法の概念を生きる我々からすると驚愕するようなシステムが存在していたことからも理解できよう(もちろん、いわゆる人権思想の流入や近代国家による暴力の独占といった構造転換も意識変化には関係しているのだが)。

 

こういった中世日本のコスモロジーを理解する契機を得ることもまた、歴史を学ぶ意義の一つではないだろうか(ちなみにそういった中世の世界観を知る本として、『破産者たちの中世』『徳政令』『一揆の原理』などは気軽に読めるものとしてお勧めしたい)。特に1980年からマルクス主義史観の見直しによる実証的研究の積み重ねが行われており、2000年代に入ってからも旧来の理解は大きく更新され続けている。本当に自国のことを理解したいのなら、理想像を過去へ無批判に投影するのではなく、その実像をつぶさに知る努力から始めることが必要ではないだろうか。

 

たとえばヨーロッパ中世の主君と家臣と言えば複数の上司に仕え、恩賞などの契約が不履行であれば家臣の側から契約が解消できる双務的契約関係であった。では日本ではどうであったか?例えば現代的なサラリーマンを元にして、「上司に忍従する部下」という見方を過去へ無批判に適応すれば、主君に忍従する家臣というのが日本中世のあり方だと思えてしまうかもしれないが、日本中世は、あるいは日本中世も、契約社会だった(ついでに言えば、日本人の時間感覚=punctuality、終身雇用制、専業主婦といったものは極めて新しい現象に過ぎず、日本の伝統とは全くのところ言い難い)。たとえば室町時代では、国人が主体的に守護のような有力者と主従関係を取り結び、いざそれが履行されなければ離反するということが広く行われていたのである(というわけで、守護が国人を組織して家臣団を形成していくという、言ってみれば「上」主導の守護領国制という見方は否定されるようになっている)。

 

というわけで日本中世の実像という視点で話を進めてみたが、「喧嘩両成敗」という観念については、3500年前に制定されたハンムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」を思い出す方もいるのではないだろうか。これは現代的に見れば過酷ないし野蛮に見えるかもしれない。しかし、この取り決めは当時行われていた「血の復讐」を抑止するものとして制定された、という点を見逃すべきではない。同族が加害者に報復行為を行う「血の復讐」は、一見すると野蛮な行為に思えるかもしれないが、報復とは言ってみれば「異議申し立て」の一環であり、行われた事に対して何も仕返しをしないことは、相手の行為を「黙認」することさえ意味した(外交のレベルで言えば、これは現代でも通じる話だ)。報復とその連鎖は、そのような世界観や必然性の元に生じていたのであり、それを抑止するには相応のシステムが必要だった、ということである。

 

以上要するに、ある世界について深く理解する(理解しようとする)ことは、別の世界へのよりよい理解にも繋がりうる。そしてそれは、我々が自明と思っている今日の世界理解を相対化・深化することにもなってくるであろうと述べつつ、この稿を終えることとしたい。

 

 

(注)

凶悪犯罪に対して「仇討ち」を認めろというような私刑容認論を時に目にすることがあるが、そういったある種の「自力救済」がどういう事態を惹起するか、その実例をよく見ておいてから論を構築すべきだろう。なるほど共同体の空洞化が凄まじい勢いで進んできた現代日本において、当時のような同朋意識が存在するかと言えばそうではなく、契約による復讐代行も含め個人・家族単位の報復にしかならないという予測は成立しうるが、現在の「ネットリンチ」の様を見ていると、かつてとは違う枠組みで社会的・物理的抹殺やその拡大的適応が行われても何ら不思議ではない。


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