結局、どっちの方が社会的に公益性があるのかって話:短絡的な自己責任論はなぜクソなのか

2024-05-14 11:28:37 | 日記

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで言われている職業・職場についてのコメントや報告が全ててではないのは当然としても、少し調べれば魅力的に見える(聞こえる)ものがどういう内実なのかを知る機会は今の世の中に溢れているわけで、これらを何も知らず、あるいは知ろうともせずに沼へハマっていく人間に対しては、思わず「自己責任」の言葉をぶつけたくなる心情は個人的によく理解できる。

 

しかしでは、こういった情報を学校教育などで伝達・共有していくのと、自己の情報収集に任せるのとでは、どちらが「騙される」人間が多くなるだろうか?後者であるのは論を俟たないだろう。そして、こういったものに「騙される」人間が増え、精神的・肉体的に働けない状態に陥ったり、闇バイトなどの犯罪に手を染めたり、また同時に腐敗した業界や腐敗した構造が温存されてしまうことは社会的に是であるかと問われれば、おそらくそれを肯定する人は皆無だと思われる(労働者数のさらなる減少や、犯罪率の上昇は喜ばしいことだろうか?などとわざわざ聞かれるまでもない話だ。あるいはそれでもなお自由放任にすべしと考えるのであれば、それはもはや「信仰」と呼ぶべきではないだろうか?)。

 

まあこんな事をくだくだしく述べるのは馬鹿げていると思われるかもしれないが、逆に言えば、そんな馬鹿げていることをわざわざ再確認せねばならないくらい、すぐに自己責任論が巻き起こる社会状況というものは、病的かつ幼児的なのである(百歩譲って、利害調整が必要な話とか、リソースの問題が絡むならまだわかるんだけどね。しかし、明らかな法律からの逸脱を共有するとか、正しい状況把握をする・させるのは、そういったコントラバーシャルな話ではない。逆にこういったものを教育の場などでも扱うべきではないとするなら、もはや何らかの利権でも絡んでいる線を疑った方がよいのではないか・・・とさえ思う)。

 

この手の話はしばしば勘違いされているが、「かわいそうだから助けてあげないと!」とか、「同情できないから後は勝手にやって😞」などといった感情論で済む問題ではない。どちらの方が社会的公益性に適うかが重要なのである(リマインドの合理性でも触れたが、まさに「情けは人の為ならず」だ)。別言すれば、「同情するかしないか」は主軸ではなく、「その影響がこっちにも及んでくることを踏まえて社会的にどうすべきか判断せよ」ってことなのだ。

 

もちろん、念のため言っておくと、冒頭に述べたような情報をいくら教育・共有しようとしたところで、それでも「騙されて」ハマるアホがいなくなることは決してない。この点、情報の共有や救済のような話を、すぐに「結果の平等」=全員みな同じ行動をするかことを求めていると短絡する人間は、それが意識的かはともかく、極めて馬鹿げた発想法をしていることに気付いた方がよい。重要なのは、世の中多くの人間がいて、かつその全てをコントロールするなど不可能事であるのを踏まえた上で、一種の「歩留まり」の割合が増えるならそれは合理的だ、と発想できるかどうかである(言わばこれもまた「機会の平等」の一種)。

 

職業・職場に関する教育・共有が社会的にどのようなリスクを縮減しうるかについては、4月に多く活用されて話題を呼んだ退職代行のことを想起してもよいだろう。ケースは千差万別なのでその性質を軽々に断じることはしたくないが、とはいえこれまで「お客さん」として扱われてきた学生が、そこから脱却する情報や経験を欠いたままに社会人となれば、そのギャップの大きさからその場を離脱する兆候・行動を見せることはそれほど想像には難くない(もちろんやられる側としては困ったものだが)。

 

この問題については、実際のところ様々な社会的・制度的背景があると思われる。例えば経済成長していた昭和の頃ならば(失われた30年より前ならば)、終身雇用と年功序列の仕組みが存在し、かつそれが社会を覆っているという幻想が機能してもいたので(実際には商店街などの個人事業主もそれなりの数いたのだが)、会社側は新しい人材を新たなメンバーとして研修で会社向け人材にチューニングして囲い込むから、むしろその前にあれこれ手垢がついていることを厭いさえした。入社する側も、そこに安定と上昇というインセンティブがあったがゆえに、今から見てブラックな要素が様々あっても、まあこんなものかと会社共同体に没入するメリットがあった(そもそもその頃の教育が今と違って普通に体罰などが行われていた、ということもあるだろうが)。

 

これはあまりピンときづらいかもしれないが、当時においては、そこに属していれば、分解が進む地域共同体に代わって見合いシステムの代行までしてくれ、言い換えれば組織の成員には「家族形成の斡旋」というおまけまでついてきたわけである(以前紹介した『仲人の近代』などを参照)。つまり繰り返すが、こういう「丸抱え」の構造とそこに確かなメリットが企業・社員ともに存在していたがゆえに、これは昭和の時代に上手く機能したということを認識してしおく必要がある(なお、日本で終身雇用が一部で始まったのは大正期以降であって、それ以前は欧米などと同じく簡単にレイオフされる仕組みだったのであり、それは「日本の伝統」でも何でもないことに注意を喚起しておきたい。ちなみに企業の「丸抱え」的性質を最もよく表すものの一つが、以前も紹介した「企業墓」だろう)。

 

さて、言うまでもないことだが、今日ではこのような仕組みがもはや崩壊している。すでに1980年代にはフリーターというスタイルが魅力的なものとして語られ始めていたが、それ以上にバブル崩壊やリーマンショックなどで会社がそれまでのシステムを維持することを放棄し、メンバーシップ型雇用こそ残っているものの、そこには非正規雇用・派遣社員・契約社員のように多様な雇用形態がある上、その間で格差や分断が生じており、もはやかつて見られたような一体性は存在しない(これは先日の「『子持ち様』批判が起こる社会的背景:ライフスタイルの多様化とメンバーシップ型雇用の問題点」でも触れている。なお、念のため言っておくが、これは求職者側のニーズの多様化だけに原因を求めるのは正しくなく、企業側が元の正規雇用社員を据え置くため新卒採用を大幅に絞り込みつつ、労働力としては安価で柔軟性のある非正規雇用を求めたという背景に留意する必要がある)。

 

会社が仲人として媒介するお見合いはもはや絶滅危惧種化しつつあるので、今さらそれを強調する必要もないだろう。そもそも、今日でそれやろうとしたら、セクハラとなるリスクさえ考えられる(と言われてピンと来ない向きには、職場で上司などが「まだ結婚しないの?」と言うアレを想起すれば十分かと思われる)。

 

さて、このようにして会社共同体が急速に変質・解体しているがゆえに、それまで当たり前とされてきた愛社精神やら、あたかも終身で雇っていただいている会社のご恩に対する奉公とでも言うような滅私的労働のあり方というのは、もはや通用しないのは論を俟たないだろう(プラスで与えられるものさえないのに、なぜ違法な状態を耐え忍んで奉仕をせねばならないのか)。こういうわけで、それまでは丸抱えのシステムゆえに許容・受忍されてきた働き方が、もはや「やりがい搾取」・「ブラック労働」としかみなされなくなり、SNSなどを通じて告発がどんどん広がっているのは、単に日本人の法意識だけでなく、社会的・経済的にも必然的なことと言えそうだ(会社の側も、どう体よく「使い捨て」るかという発想になりがち)。

 

つまり端的に言えば、労働者と会社の精神的紐帯は至極当たり前の理由で希薄化している、と評価することができる。しかしそういう状況の変化にもかかわらず、今もなお新卒一括採用システムがとられており、相変わらず「入ってから何とかする」仕組みを大きく変えられていない(まあ一応大学生のインターンとかは青田買い以外にも一応そういうミスマッチを防止する側面もあるのだろうが)。加えて、親が持っている情報や、学校の教師が面談で話す情報は古かったり非常に偏ってたりするので(キャリアアドバイザーでもないのだから当たり前)、結果として多くの学生が職業や職場の実態に様々触れ免疫化することもないまま、実戦配備されることになる・・・そりゃ「こんなはずじゃなかった」って逃亡する人間が増えるのは当たり前やんと私なんぞは思うのだが、いかがだろうか。

 

そしてそういう社会の実情を思う時、職業の情報収集を自己責任として個人任せにするのはむしろ極めてリスキーで、学校教育の場などを通じて体系的に触れる機会を設けることが社会的公益性に適うのだ、と述べつつこの稿を終えたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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