『ロリータ』と『1984年』:人間を支配する残酷さの発露について

2023-06-28 11:40:06 | 本関係

 


こちらはリチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』の中で取り上げられている、ナボコフの『ロリータ』と、オーウェルの『1984年』が、それぞれどのように残酷さやアイロニーを表現しているか、について解説した動画である。


前者の『ロリータ』については、自身の理想像を他人に押し付ける残酷さ(独善性)と、そこへの執着によって他人の感情の機微に気付かなくなる無関心とその残酷さについて触れられているが、このブログでも同様のテーマは繰り返し取り上げてきた。その例としては、「子供は天使じゃない」「鬼束直はキケンだ」「心の底からIしてる」「子どもに対する『庇護欲という名の善意』の暴走」などを挙げることができる。


それらに通底しているのは、「相手に勝手な理想像を押し付ける」・「相手のためと言いながら、その実は自分のエゴイズム」といった行動・精神性で、非常にわかりやすい事例としては毒親について取り上げたのが「毒親とはこういうものさ:支配欲、劣等感、埋め合わせ」だが、このような問題系がわかりにくいなら、逆に他者性への断念を軸にした「『一切皆苦』について」のような発想から考えた方が理解しやすいかもしれない。


こうやって一般化していくと、『ロリータ』を通じて観察される独善性や残酷さが、抽象的問題では決してなく、実社会における他者への抑圧構造(『空気の研究』などで扱われる同調圧力)にもつながることがわかる。


次に『1984年』。こちらは前回の記事でChat-GPTに絡めてAI社会主義の話をしたが、そのイメージを元に抑圧の構造を見ていくと参考になる部分もある。ただ大きく違うのは、『1984年』ではあくまで古典的なパノプティコン的支配(近代的規律訓練型支配)が描写されていることだろう。


そのような形態は確かに一定の有効性はあるが、「多様性を尊重する」という今の傾向とは合わないため、反発を招きやすい。だからむしろ、「誘導されていることにすら気付かず、自由意思でこちらの望んだ選択をさせる」というマックの椅子の構造を典型とするような、環境管理型支配が今すでに広がっているし、これからますます精緻化・一般化していくことと思う(この点、本書はどうしても1949年という時代の制約を免れていない。フーコーやドゥルーズが生-権力といった支配構造を重視し始めたのは20世紀後半のことである)。


なお、『1984年』に絡めて個人的な話をすれば、自分の発想がオブライエンとかなり近いところにいるとも気付かされる(これは「生まれた時代によっては、自分が熱心な異端審問官になっていたかもしれない」という話ともリンクする)。何度か書いていることだが、私は一般的に「人間を信用しない」こともあって、次のような構造で考えている。


つまり

【個-リバタリアニズム】

【社会-リバタリアン・パターナリズム/リベラリズム】

【世界-カオス】

というものだ。


AIの「進化」と人間の「劣化」が同時に進むことが重要だ、という話も何度か言及してきたが、そのような状況において仮に人間が労働から解放されるような状況があったとしても、むしろ自由による不安に怯え、指示・支配を自分から求めるようになる可能性が高いと考えられる(これは「そもそも人間は役割を欲する生き物だ」という福田恆存の指摘した思考・行動様式の劣化版とも言える)。


課題先進国と言われる日本はその尖兵となるのか?という点はさておき、そうして生じる諸々の暴走(ハレーション)がコントロール不可能になることを防ぐためには、自由意思を明確には抑圧しない形で行動をコントロールする仕組みがより重宝されるようになるだろう(その一例は、タバコを一箱1000円にすることでの、税収は確保しながら喫煙者数や喫煙マナーのコントロールするような制度設計である)。


『1984年』が描く世界は、その構造がオールドファッションであるため最新の支配構造の巧みさを理解するのにはいささか物足りないが、それでもそのような仕組みを求め、それによって人をコントロールしようとする精神性とその残酷さの理解にはそれなりに役立つと思われる、と述べつつこの稿を終えたい。

 

 

【余談、あるいは過酷な未来予想図】

後半はかなりシニカルな感じがしたかもしれないが、子供の騒音問題などとも関連する共同性の喪失と並行し、さらに経済衰退や生活苦といった形で不安・不全感の先に人間が「劣化」の極まった行動をとると予測するのは、そう荒唐無稽だとは思わない。


このような状況に歯止めをかけようとするならコミュニティの復活か、目的合理的なアソシエーションの結成といった中間団体の活性化しかないと思われるが、そもそも持続可能なコミュニティを作っていくのには相当に意識的な人間配置やバランスが重要で、かなり高度な差配が要求される。少なくともコロナ禍で見られた戦中の歴史を繰り返すような振る舞いを見ていると、これはほぼ不可能であり、仮に成立できたとしても、排除的共同体として終わるのがオチである(ここでは排除を正当化する「共感の病理」などにも注意したい)。そしてアソシエーション的なものの形成はそもそも日本人の苦手とするところであり、すぐにポジション争いを始めるだけなので、これも無理であろう。


そしてこの見立てが正しければ、子どもを持つことは今よりどんどんリスク化していく可能性が非常に高い。というのも、それまでは問題が起こったとしても、「子どもがやったことだから・・・」とお目こぼしされていたことが、「この実害の責任をだれが取るのか」という点が主にクローズアップされ、容赦なく訴訟となるケースが増えていくと思われるからだ(これは昨今の炎上動画を想起すれば十分だろう。子供が親の手を離れた場所で不適切な動画を上げた瞬間に家族の生活が終わる、という状況がありえるわけだ)。


もちろん、突如アメリカのような訴訟社会になる、などと予測するのはいかにも荒唐無稽だろう。しかしながら、子供という存在が孕む大きなリスクは、ただでさえ不安とリスクヘッジで自己を維持するのに必死になっている人々を、より結婚・出産から遠ざけることに寄与する可能性は高い(保険で賠償を補う方法もあるが、それはつまりコスト増=子育ての負担増である)。


もちろん、「そこまでするのは可愛そうだから」と非難する向きが無くなるとも思わない。しかしそれに対し、「じゃああなた(たち)が補填してくれるんですか?」と問われれば、返す言葉もないだろう。そこにはもはや、持ちつ持たれつのような共同性は存在しないのである。


こう書くと、いかにも共同性を金科玉条のものとして称揚しているように読めるかもしれないが、そうではない。例えば江戸時代なら、人の流動性の低さゆえに同じコミュニティで生き続けざるをえず、それゆえ借金回収に際しては相手の生活を根底からは破壊しないよう一定の線引きがあった。あるいは室町時代では、共同体のあり方も反映して郷質や国質のような仕組みが存在したが、そんなものは今日においてもはや成立しえない。あくまで濃密な関係性の履歴があり、かつそこからの離脱がそれなりに困難だからこその「お互い様」なのであり、その軛から逃れるために都市化や核家族化などが進んだ状況において、そこへの回帰は非現実的としか言いようがないだろう)。


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