大曾教会で、すしざんまい(違う)と煉瓦造りの教会を堪能した後、南下して奈良尾方面に向かう途中旧鯛ノ浦教会堂に立ち寄った(例の雑地図で言えば⑥→①へのムーブ)。
ちなみに⑥は中心部っちゃあ中心部だが、それまで海海家海海海海家海海・・・みたいなんだったのが山山山家山山山家山山・・・になるだけなんで、素朴さは何も変わらんwまあ海沿いを走ることが多い中でアクセントとしておもしろくはあるけどね(・∀・)
教会というより、田舎町の小学校を思わせる素朴な造り。
ちなみに教会堂の中はキリシタンの歴史に関する簡単な資料が展示されており、それにまつわる図書館の役割も担っている(これまた田舎の学校感を印象として持った理由かも)。
異教徒に対する憎悪なのか、理由にもならない理由で殺された家族たちの慰霊碑である。なお、これは禁教下の江戸時代の出来事と思われるかもしれないが、すでに明治となっていた1870年の事件ということに驚かれるかもしれない。そもそも五榜の掲示では第三札に「切支丹邪宗門厳禁」という文言があり、掲示が正式に撤去されたのは1873年のことである(ちなみにその間も、第三札は欧米列強からの批判を受け、外交上の配慮から様々文言に変更が加えられていった)。
その意味においては、鎖国+禁教の江戸から開国の明治に変わったことが、そのままキリスト教全面解禁であったわけではないし、また邪教観が一掃されたわけではないことも、銘記しておくべき一件と言えそうである(ちなみに1873年でガラリと認知が変わったわけではなく、例えば京都に同志社大学が創立されたのは1875年のことだが、「京都という神聖な場所に、邪教の大学を作るとは何事か」と反対運動が起きている)。
日本においてキリスト教が広まらなかったことについて、西洋・東洋の価値観の違いなどを云々するのは結構なことだが、こういった社会的観念の残存というファクターを見逃すと、私が「脱亜入欧的オリエンタリズム」と批判してきたような、極めて雑駁な文明論や宗教観に基づく偏った評価になりかねないので注意が必要だろう(これに関連する事項として、「潜伏キリシタンと『なりすまし』:あるいは宗教儀礼と帰属意識の乖離について」や「日本人の『信徒』に関する基準」なども参照。なお、より総体的なまとめとしては、「日本宗教論に欠落しているもの:歴史性・共同体・社会システム・アジア」も書いている)。
というわけで、日本の宗教に関する歴史や歴史認識に思いを巡らしたところで、
廃校の姿や謎の港の写真を撮影しながら、さらに南下を続けるのであった。
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