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隠岐の路地裏

2025-03-30 16:23:57 | 離島旅行

 

 

昨日風雨の中の長距離行軍で身体を酷使したにもかかわらず、思ったより寝れなかったこともあって起き抜けベッドでゴロゴロしていると、結構いい時間になったので食堂に向かう。

 

朝食は「7:30から食べられる」と聞いていたので言った時に作ってもらう仕様なのだろうと思っていたが、どうも7:30に準備されていたようで、オヤジさんが待ちくたびれておった😅

 

朝ゆえにシンプルだが、スクランブルエッグに一夜干しと重たくないが食欲の湧くものが揃っている。

 

ということでおかわり含めがっつり平らげた後、荷物を担いでホテルを後にした。

 

 

 

 

 

うーん、いかにも平和で静謐な港町って感じやなあ・・・昨日の嵐が嘘のようだw

 

 

 

 

はい、こういう店はどこにでもありますよねえ。というか前にも小泉八雲の件で書いたけど、港町ってのは金を持った船乗りたちが風待ちで滞在する場所何で、飲み屋はもちろん、色町なんかもあって当然なんよな。

 

ただ、題名の「百万両」ってのがいかにも時代がかっていて微笑ましかったw

 

 

 

 

 

 

おお、「大正モダン」と言うには新しすぎるけど、それでもこの昭和の香り漂う店構えは思わず入りたくなる魅力があるね(・∀・)

 

 

 

 

 

 

ちなみに西郷港から北に直進すると、デカいドラッグストアがあるんだが、

 

 

 

 

 

 

その隣には隠岐騒動勃発の記念碑がありマスよと。こういう組み合わせは、昨日見た西ノ島町のユアーズ&大山神社が思い出させる。

 

なお、隠岐騒動勃発の背景については様々な複合的要素が指摘できる。

1.そもそも古神道の要素が色濃く残っていた(離島という意味では沖ノ島などを想起するのも有益だろう)

2.光格天皇から目をかけられたきっかけで神道学者が来島・教育を行った(水若酢神社の駅鈴と宝物殿)

3.そこにペリー来航という対外危機が生じる(離島であるがゆえに、より来航船への危機感も強い)

4.松江藩の対応が日和見的でもあったため、尊王攘夷と幕府からの自立的傾向の両方が高まった

といった具合である。

 

ここでの独立政府樹立をパリ・コミューンになぞらえる向きについては、なるほど確かにほぼ同時代の出来事(大政奉還が1867年でパリ・コミューン成立が1871年)として類比的に考えたくなる心情はわかるが、あくまで天皇をいただく権威主義的側面を強く持っている点など、大きく異なる部分も多いため、軽々しくは従えない。

 

去りながら、草の根ナショナリズム・草の根保守の典型例としては、非常に興味深い現象であると言えるだろう。

 

 

 

 

 

一たび路地裏に入ると、昭和~平成初期頃にタイムスリップしたような感じ。

 

 

 

 

 

そしてそんな中にも所狭しと神社が建てられている。

 

先に紹介した隠岐騒動で、仏教勢力は日和見的態度を取った、とされている。少なくとも自立政府を建てた側からすると、そのように見えた訳だ。そのため、隠岐騒動の数年後に発布された神仏分離令の後、隠岐は極めてラディカルな廃仏希釈が行われた場所の一つとなった(その他で著名なのは薩摩藩や津和野藩)。

 

結果として、一時隠岐の寺は壊滅し、葬式さえ神葬祭が一般的になるほどだった。数十年後に少しづつ復興が進んだが、それでも数は大幅に減って規模も家屋をそのまま転用したようなこじんまりとしたものとなり、神社の数や大きさに比べれば明らかにアンバランスなものとなった。

 

隠岐は離島という場所柄やその規模の割に少し行けば神社を目にするほどその数が多いが、一方でお寺は時折見かける程度で、しかも住宅に溶け込むようにひっそりと存在している背景は、その辺りに由来する。

 

 

 

 

 

とか何とか考えつつ歩いてたら、何とも魅力的な石段が見えてきましたよと。これを登らざれば何とする?というわけで、何があるかも知れない情報へと歩みを進めてみることにした。


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