脱亜入欧的オリエンタリズムとその淵源

2021-07-26 11:34:34 | 歴史系

1915年の日本では、アジア人で初めてノーベル文学賞を受賞したタゴールのブームが生じていた。その時タゴールに興味を抱いた人々の代表的な評価は、例えば吉田絃次郎の次のようなものであった。

彼れの信従な生活の奥には、何うして運命に臣従する弱者の心が潜んでゐないだろうか?・・・恐らく彼れ等印度人は彼れ等をつゝむ自然に対して斯やうな疑ひを抱く暇はあるまい。彼れ等はたゞ驚き、たゞ賛美しつゝ神の尊大の前に額付く忍従の生活者である。

要するに、彼を自然に従順な非近代的存在として評価したわけだ。

 

そんな中、タゴールは1916年に来日して講演を行うわけだが、そこで注目されたのは髪型や相貌、着衣などによるエキゾチズムであり、言ってみれば異国の仙人のような扱いをされたわけである。しかしタゴール自身は、様々な講演の中で近代化・欧米化しつつある日本の状況を指摘し、その上で日本が欧米列強と類似の行動原理で動いていることに警鐘を発したのである。

 

しかし、それに対する人々の反応は、中村長之助によれば次のようなものであったという。

人々の感想を聞いて見ると、朗読の音声が美しかつた、態度が高雅であつたといふ。彼等は是れといふ明瞭な思想を得たのではなかつた。言はゞ、其風采に接して一種の古典的気分を味ふたのである。思想の新しい点には気付かずに済んだ。タゴールは大阪を素通りし、大阪人士はタゴールを素通りさせた。

と。

 

今述べた内容は、中島岳志の『アジア主義』で紹介されているタゴールのエピソード(P413-P420)を要約したものである。これを見ると、当時の日本(の知識)人がタゴールを同じアジアの一員という同朋意識よりもむしろ、遠い世界の仙人に対する かのような態度でのぞんでいたことが伺えるし、またそこにある種の近代化した日本人と未開のインド人、というような「上から目線」を見出すのは容易だろう。

 

この発想の由来を考えてみると、古代・中世でも見られた天竺=遠くの理想郷という観念や、いわゆる「神国思想」が多少は関連しているかもしれない。とはいえ、タゴールブームに乗っかったのは主に都市部の知識人層であろうから、それよりは日本の近代化の成功とインドの植民地化という事実に基づいた優越意識があったと考えるのが妥当だろう。だからこそ、タゴールから自分たちの意識せざる優越感の土台を批判されるやいなや、途端にそれは反転して相手へのヘイトと化す。つまり、「いやいや俺たち近代化成功してるし!お前らそんなこと言ってるけど、実際植民地化されてるやん!」という反応が惹起するわけだ。

 

「1915年」という時代を考えてみると、日露戦争の勝利から10年経ち、関税自主権も回復して名実ともに列強の仲間入りを果たした時期である。すでに明治維新から50年近く経っており、幕末や維新を実体験として知ってる人はかなり少なくなっていたことだろう。そんな状況下で、当時の30代なら10代で日清戦争の勝利、20代で日露戦争の勝利を経験しており、40代でも10代で明治憲法、20代で日清戦争勝利、30代で日露戦争勝利という状況を目の当たりにしたわけだ。とするなら、ある意味「日本が近代化してるのが当たり前」という認識に(特に都市部の人たちが)なっていたことは想像に難くない(もちろんそのような認識にそぐわない地方の実態があることも多少は知っていたにせよ)。そしてそのような精神状態が、タゴールへの眼差しと、彼の警鐘に対する感情的反発の淵源となっていたと言えるのではないだろうか。

 

そう考えると、タゴールに対する諸々の反応は、なるほど現代の引いた視点で見れば、アジアの同胞として植民地化されたる者の痛みを共有するどころか、遠く離れた「未開の地」に対するナイーブな偏見を内面化した状態として実に傲慢で愚かしいものに映るが、血の代償を払いながらアジアの辺境から列強の一角へと一気に駆け上がった人間たちのメンタリティとして、このような「脱亜入欧的オリエンタリズム」は同時代にいたらなかなか免れるのが難しかったであろうし、もっと言えば現代にも通じるものであるようにすら感じられるのである。

 

というのも、このような「脱亜入欧的オリエンタリズム」は、今日でさえも我々の中に強く残っていると私は感じているからだ。私がこのいびつな世界観を意識し始めたのは、日本人の宗教意識とその言説について調べてみるようになってからだが、その際に極めて不思議だったのは、日本の宗教状況や日本人の宗教意識を論じる場合、日本の特殊性をやたら喧伝するか(=島国根性)、あるいは欧米との比較をする(=入欧的メンタリティ)ものばかりがだったことである。今さら言うまでもないことだが、日本が現在の韓国や中国のような地域と関係を持ち始めたのは数千年前に遡り、仏教や儒教などに限定しても、その歴史は千年以上に渡る。一方、欧米との関係が始まったのはせいぜい16世紀からで、その歴史は500年にも満たないし、キリスト教が仏教や儒教などと違って日本で広く行われたとは言い難い。

 

とするなら、日本の宗教や日本人の宗教意識を考える場合、まず中国や韓国がどのようになっているか、あるいはインドはどのような状況かという問題意識が先に生じてしかるべきはずだが(「独断と偏見による日本無宗教論」などを参照)、欧米の一神教的な世界と比較して多神教の日本と言う割に、一神教たるキリスト教が韓国にかなり広がったことは等閑視し、またインドの多神教と日本の多神教を比較対象することなどは思いも寄らないようなのである(もしそういう意識がわずかでもあれば、インドという反証によって、日本人=多神教や宗教的混淆=無宗教などという暴論は到底出てきようがない)。

 

その背景には、次のような意識があるのではないか。すなわち、日本は近代化に成功した国であり、アジアとは異なる。しかし、近代の先駆者であった欧米とも異なる、と。そういう屈折した意識がそこに見て取れる。また、その先に述べた宗教状況の分析で比較の対象にアジアが登場しないのは、もはや自分たちの由来や特性がアジアにあるとは露とも思っていないからであろう(何となれば、そういう世界観を自覚すらしていない)。自分たちを欧米とは異なる(欧米のようになれない?)存在とみなしながら、一方で地域的には近く歴史的影響関係は長いはずの国々は意識することすらない。そして私は、このような意識を「脱亜入欧的オリエンタリズム」と呼んでいるのである。

 

なお、私が今回主に焦点を当てたのは研究者の発言ではなく、素人の人たちのそれである(まあ一般向けの宗教の解説とかでさえ、研究者がそういう比較分析をしているのも見たことはないのだけど)。しかし逆に言えば、市井の人々がそういうバイアスに満ちた発言をしているからこそ、むしろ脱亜入欧的オリエンタリズムは広く、そして深く我々の中に根を張っていることが示されているように私は思うのである。

 

次の毒書会のテーマがナショナリズムであることは何度も言及している通りだが、私は単にナショナリズムや国民国家のシステムそのものの特性・成り立ちを分析するだけでなく、今述べたような我々の意識のあり方を浮き上がらせためにこそ、このテーマと議論を活用したいと思う次第である。


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