a rough draft about the story of Mis.Ekoda

2012-06-22 18:45:04 | 本関係

江古田ちゃん~『萌え』、無害化、ノイズ排除」の次は「空気」の問題について書こうと思ったが、どうも上手くまとまらんので先に草稿の方をアップしておきたい。かなり膨大な分量になったが、あえて分割はしていない。

 

[草稿]
猛禽。おそらくそれを単なる「負け組」のひがみだと受け取る人もいるだろう。

そういう狭量さも受け入れてやるよ、みたいな勘違いが一番軽蔑の対象。

あるいはその上で、「でもお水系で働けて男もとっかえ引っかえの江古田ちゃんは勝ち組」とか言ってアホらしい嫉妬。『オタクがDQNな恋をした』でも結婚した作者を祝わずに嫉妬をもって攻撃する読者たちの話が出てくるが、「下」は「下」がいることでより安心すると。士農工商という身分設定の戦略的正しさ。「弱い者達が・・・さらに弱い者をたたく」というナイーブにも聞こえる歌詞がそのまま当てはまる残念さ。完全に他人の事とは思えないから嫉妬するのか?人が幸せになろうが、自分には関係ないのでは?相手が身近な人間ならともかく。なら祝ってればええのに。

作者は多分意図的に萌えという言葉を使っていない。妹猛禽に萌える江古田ちゃん。

猛禽が一種の合理的な適応であることは論をまたない。

とすると、それを要求する環境とはどのようなものか?

という視点をとると、私がよく言う無害化やノイズの排除という問題へと繋がっていく。

ダーリンは外国人」で日本人女性を馬鹿にする外国人への反論と内省?。カラスヤサトシの萌道。バカなほうが可愛らしい。萌にリスペクトは含まれない

岡崎京子。pink

 

お固い話が好きならこちらをどうぞ。

好きか嫌いかを括弧に入れて話す。

もし自分を出さずに上手く相手を立てる(自分を演出する)ことで周りから好感を持たれ、それによってきちんと自己主張するより多くのゲインがあるのだとしたら、前者のようなあり方を戦略的に選ぶことは何ら不思議ではない。むろん、後者からはそれは隷属化だと批判が出るだろうが、食い扶持を依存していても相手の行動様式を熟知した上で手綱を握るならば、隷属だとは言えないのでは?少なくとも、自分で汗水垂らして稼いで疲れきって寝る方が「主婦」より絶対に良い・幸福だという根拠はどこにもないのである。これを「女は家にいるべきだ」という言説と解釈するというナイーブさが読者にないことを祈るばかり。かつてそれ以外選択肢がない状態で選択幅の拡大を要求したのと、選択肢が色々ある中で戦略的にそれを選ぶのは意味が違う(しばしば選択肢は「選ばされる」=環境依存的なものであることには注意せねばならないにしても)。

もし自分で働いて食い扶持を稼ぐ状態が絶対的に善なのだとしたら、人はなぜ(その人が働いてなかったとしてだが)学生時代のことをノスタルジーをこめて回想するのだろうか?先の想定からすれば、それは働いている今よりも劣っている状況のはずではないか?このことから明らかなように、自ら働き自らを・・・している状況がそうでない状況より善であると誰もが思う、などということはありえない。

個人主義、自立の理想視が一般的な今日、自分で働くことはそうでない状態よりも無条件に良いとみなされがちだが、よくよく考えればそれは単なる趣味趣向の問題でしかない(共同体のゾンリツとか言い出したら話別だけど)。金を持っている人間を上手く操作して金を出させて楽に生活することを望むのは別に不思議な思考でも行動でもないのである。

「猛禽」の存在は自然だ。「萌え」が求められる、要するに女性が適度にバカでいてほしい環境においては、そう振舞うことによってゲインを得る。もっとも、そう振舞って利用しといて後でウダウダ文句だけ垂れるのは全くのところ筋違いだと思いますがね。

そのような構造的必然まで考慮した上で「空気」の問題を考えなければ、結局「そうは言ってもねえ」で終わり。下手すりゃ郷に入って郷に従えない柔軟性のないヤツとしかみなされない。問題は深刻なんですよ。それがわかってないヤツは入口にすら立っていない。

話をわかりやすくするために極端な仮定をしてみよう。一人で生活するのに必要な年収が最低500万で、それだけの収入を保証してくれる仕事の女性募集枠が10人しかなかったとしよう。さて、その際女性の大半は実家暮らしや男性の扶養を受けざるをえないことになるが、これは自由な選択であり自己責任の範疇になるのだろうか?おそらくほとんどの人は、疑問を感じるであろう。ことほどさように、選択肢が存在するからと言ってそこに自由な選択があるとは限らず、むしろ選択肢の存在が正当化の根拠となりあしき状況が温存される要因にすらなり得るのである。

「べき」と「である」を混同し、思考停止と精神論=実質的無策に陥る。

 

萌え、悪意なし。しょせんその程度の愛玩動物でしょ?とまでは思っていない。

あるいはこう言ったほうがわかりやすいか。「萌え」がまさにそう。小動物。

一度も出てこないことから、おそらく作者は意図的にこの言葉を使っていないのだが。

「ダーリンは外国人」。「萌道」。あえて言うなら、「多少バカで抜けてる方がカワイイ」。「江古田ちゃん」の中でも、小学6年生に向けて「バカであることが求められるようになるよ」という主人公のセリフが。

このブログで何度となく取り上げてきたエロゲーやエロマンガは、特にそういうものの宝庫。あまりに数が多いので、当てはまらないものは攻殻機動隊の少佐など少数。コミックとアニメでは異質だが、士郎正宗が最初に書いた少佐のあり方がセクシャリティもガンガン折込済みの点で。

しかしそれは限定的であることを意味しない。

その様を、私は「萌えにリスペクトは含まれない」という言い方で表現した。最大の問題は「萌え」たり愛でたりする側に、(少なくとも)明確な悪意はないということだ。だからそもそも問題とは思わないだろうし、ゆえに変化は極めて難しい(極端な例では、作中の「信者くん」の独善的な思い込み・振舞。子供は天使じゃない)。

じゃあとにかく自己主張すればいいのか?外国語講座でひたすら自分のことばかりしゃべる女性。「日本的」な対応をする主人公。テープレコーダー

(実は「江古田ちゃん」は独善的な発言者の宝庫でもある)。そんな単純な話ではない。

sex and the city。あれが全てでないにしても、あれに苛立つところから、期待する像も浮き彫りに。30代の自立した女性が考えては「いけない」こと→その規範は何か、どこから来るのか?という別の問い

お前はどうなのか?・・・娘属性はかせあちゃくら、アルラウネ、ショタ勇者鬼束直偽ハルヒキューティみゃーこ沙都子・梨花苺ましまろむしろそう感じるからこそ、その構造を考えるのだ、という思考様式を理解する人間には残念ながら一度も出会ったことがない(じゃなければ一体どうやって気づくのだろうか?)。「好きなら文句を言わない=埋没」「嫌いだから文句を言う=嘲笑」。ベタなベタとベタなネタ。思考停止とアイロニーで脳味噌が腐ってる。逆説を理解できないし、再帰性もない。

君が望む永遠の主人公に対する素朴な反応=システム・日常世界への埋没 

何にも縛られない自由な主体(の自由な選択)という思い込み・・・自由意思と環境要因(ひぐらし→ネタばれあり)

 

「手玉に取られているのに気づかないバカな男たち」と言えば単なる侮蔑になるが、実はそれに逆らうといちいちあれこれめんどくさい。つまり男女どっちが完全に上とか下とかいう問題ではない。

ドメスティックとユニバーサル別の地域性の混同をしているのではないかという疑い

ここで話を広げてみよう。実はこのことは、「空気」が支配する環境を変えることの難しさを象徴してもいる。ベタに埋没する人もいる。強迫的。じゃあわかってる人はそれを変えようとするのか。むしろ利用しようとする(合理的適応)。その方がゲインがあるし、ベターマンたちの反発を押しのけてわざわざ変えるだけの動機づけもない。かくして、ベタ・メタとも合わせて積極的・消極的に「空気」が強化されていき・・・だから、わかってない人たちを気づかせればいい、という単純な問題ではない。、 

このような理解を 「調和と地雷」、「いい人」問題、キム・ギドク、鞠也に首ったけ、ソウルイーター、キャラ的人間関係。批判。沙耶の唄、さよならを教えてザンジバーランドの怪人で触れたシステムの問題。ヒトラー、the waveでないと気づきがもたらされない。この話は「夜と霧」を書いたフランクルと絡めて近いうちに書く事になるだろう。

「日常」という作品を紹介したが、キャラソンの考え方。「みおはいい子だなあ」と。なるほど。ではそこに、キャラが「そう言ってる自分がかわいい(自意識)」、「カワイイでしょ?(見られ方)」という理解のベクトルはあるのか。作者の意図あずかり知らぬが戦略的コミュやコミュの複雑さとはそういうこと(「猛禽」とはまさにそういう存在)。そういう裏読みするなんて心が・・・という人も。

さて問題は「腹黒さ」か「ナイーブさ」か。どちらかが真ではなく一視点。てかプロパガンダとか演説ってそういうもんでしょ?政治はヒヤクというかもしれんが日々出会っている広告はどうか。どうやってクリックさせるか。詳しくは知らんが、女性キャラだとクリック数が全然違うらしい(ねとすたシリアス2)。オンラインゲームの広告・バナーは確実に女の子だしねwww中身ではなく戦略性。キャラソンについては「友達にバカと言うなんて」・・・「いやそれは愛情で・・・」とか、動画コメントの頭が悪すぎ(ベタすぎ)て戦略性を云々どころじゃなく、肩をすくめるしかねーわ・・・

ゲッペルス。映画とプロパガンダ。「言語」の授業の話。

メタ支店」でも書いた、「素朴な感想がどのように使いうるか」という話。実際の感想と、それをどう表現するとどう見えるかという視点は簡単に両立しうる。

 

対象を「他者」、すなわち自立した不可解な異物としてではなく、同質的存在として癒着する。

この一種の境界線の曖昧さは、表現における無国籍性やガラパゴス化となって新しいものを生み出しうる=一概に×とは言えない。

しかしこの枠に埋没すると、容易にノイズ排除へと。


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2 コメント

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こんにちは (キ帝ィ)
2012-06-23 22:34:58
はじめてブログ拝見しました。ブログ>日常のハカセは可愛いですよね。アニメの批評などはブログではあまりふれられないのですか?余談ですが自分は「氷菓」「アクエリオン」「うぽって」「坂之上のアポロン」「ヨルムンガンド」などを最近は見てます。
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こちらこそ (聖リオ)
2012-06-24 22:50:10
はじめまして。

記事として取り上げたことのあるアニメとしては、

カテゴリにある「灰羽連盟」を初めとして、「ソウルイーター」、「日常」、「デスノート」、「The World of GOLDEN EGGS」、「世にも恐ろしい日本昔話」、「電脳コイル」、「ぼくらの」、「ひぐらしのなく頃に」などがあります。ちょっと触れたレベルとなると結構な数になるかもしれません。

お答えになっているかわかりませんが、以上です。
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