ひぐらしのなく頃に~精神主義という名の病~

2011-08-15 20:51:04 | ひぐらし

※TIPS「とあるプレイヤーの証言2」の続き

 

(登場人物)

フレーゲル=F、カンダタ=K

F
さっそく本題から入るけど、君は罪滅し編で提示された鬼隠し編の結末とその扱いに全く納得できなかったらしいね。

 

K
そうです。大きく分ければ二つの問題があります。まずは「罰ゲーム」と言いつつペンで励ましの言葉を書こうとしたこと。あの圭一の状態を見ればそういう行為に及ぶのは愚鈍以外の何物でもありませんが、まあこれは演出レベルでの話なので「小さな」問題と言っていいでしょう。そしてもう一つは、圭一がそのことを奇跡的に「思い出し」、何てことをしてしまったんだと懺悔したことです。これはつまり、作品が彼女らの行為を肯定的に扱っていることを意味しますが、こっちは非常に「大きな」問題だと言えるでしょうね。

 

F
前者がどういう点で問題なのかもう少し詳しく説明してもらえないかな。

 

K
あの時点の圭一はバットを振ったり前日にチェーンの一件があったりと異常なのは明白です。後で述べる理由からレナや魅音がそのような状況でなお直接コミットしようとするのは百歩譲ってわからなくはありませんが、「罰ゲーム」の時も彼は異常な恐がり方をしていたわけで、それでも字を書くのを止めようとしなかったのは愚鈍という言葉以外に評価のしようがありません。別の観点から言えば、レナや魅音がそういう白痴的な行動をするキャラだという必然性が感じられるような描写が十分なされていないんですよ。これも百歩譲って「しょせんは中学生」だとしても、作中の描かれ方では「部活」などでもやり取りからも明らかなようにもっと頭の切れるキャラとして描かれてるわけです。さらに百歩譲って言えば、動揺した時に判断力が著しく低下する魅音一人だったらまだわかりますが、経験者であり時に突き放した判断のできるレナもセットになっている以上必然性は皆無ですね。

 

F
でもそれは悟史と同じく知らないうちに「失踪」してしまうことを恐れたんじゃないの?彼と同じにならないように、圭一に対してはあえてコミットすることを選んだと。

 

K
だとしても、「監督」=入江を呼んでるわけですから同じ状況にはならないでしょう。一回症状(?)が落ち着いてから会いに行くとかもできるわけですし。もっとダイレクトに言えば、あの状況で「何かしなければ今生の別れになってしまう」といった判断がなされる必然性は全くありません。レナと魅音程度のオツムがあれば、「気になって仕方がないけど、今は下手に刺激したらマズイ」と考えて入江に委ねると思いますけどね。

 

F
でも悟史のように地下で寝たきりに近い状態になることもありえるわけでしょ?その可能性を考慮したら・・・

 

K
それは全てを知ったプレイヤーが陥りやすい錯覚でね。あの二人はそんな事実を露知らず、悟史はおそらく殺されたと思ってるんです。これは目明し編で詩音に対する魅音の発言から明らかですよね。彼女は戸惑いつつも、「生きてはいない・・・と思う」と言ってるわけですから。だから、圭一に関しても普通に入院という発想をすることでしょう。まだ重傷を負わせたり殺人を犯したりはしてませんしね。もちろん実際にそうはならない可能性が高いでしょうが、その領域は梨花ならぬ彼女ら二人には考えも及ばぬことです。

 

F
う~ん、レナが自分の症状の経験から特殊な状況だと判断を下した可能性は?

 

K
おそらく彼女は症候群のL4まで行ったのでしょうが、それでも彼女はそこから社会復帰してますからね。「今生の別れ」とは判断しないでしょう。むしろ自分の経験ゆえに、ね。

 

F
なるほど。まず問題は色々考慮しても彼女たちの行為には必然性が全くないということだね。

 

K
その通りです。だから、説得力がまるでないんですよ。で、「何でこんな暴挙に出たんだろう?まあそれじゃあ殺されてもしょうがないわな」となるわけです。祟殺し編の鉄平殺しとその後の展開のように、善意が最悪の結果を招いてしまうことの痛みや苦悩など微塵もなく、あるのは嘲笑だけです。

 

F
それが「小さな」問題だとすると、もう一つはどういうふうに「大き」いんだろう?

 

K
繰り返しになりますが、二人の行為を肯定してしまっている点ですね。

 

F
具体的には?

 

K
罪滅し編では圭一が事の顛末を奇跡的にも正確に思い出して謝罪もするわけですが、一方でレナや魅音の行為が不適切なものであったという話は全く出てきません。なぜでしょう?

 

F
そりゃ圭一を救うための献身的な行為だったからでしょ。君の言うように問題はあったかもしれないけどさ。

 

K
善意から出た献身的な行為であれば、結果の如何を問わず肯定されると?

 

F
いやそこまでは言ってないけどさ・・・

 

K
作中に批判の言辞がないのは、つまりそういうことですよね。そもそも罪滅し編自体が「善意に基づいてコミットすれば多少の誤解や諍いはあったとしても、最後には必ず通じる」という構成になっているんですからね。

 

F
まあ確かにレナの救い方はそういう描き方をしているよね。最後の戦闘シーンのSF的な描き方とかには気をつける必要があると思うけど。

 

K
ですよね?もっとも、「それで全て丸く収まると思ってたら甘いよバーカ」とばかりに「悪魔の脚本」を入れたところはさすがですけど。

 

F
まああそこで普通にハッピーエンドになったらその後が続かないからねw

 

K
あなたバカですか?私が言っているのは、祟殺し編で「いかなる理由があれ殺人を肯定しない」という内容を書いたのに、鉄平・リナを殺して丸く収まってよかったね、なんてエンディングにしたらバカ丸出しってことですよ。

 

F
ふむ、テーマ的にありえない、と。

 

K
そういうことです。ついでにもう少し詳しく説明しておくと、鉄平殺しは沙都子に「感情移入」するフックを十分に作っておいて、ふがいない周囲や鉄平の救いようのない極悪人ぶりを徹底して描き、鉄平殺しの必然性を十分に構築しておいて、殺させています。でもその行為は、誰も幸せにすることなく、そもそも殺したのかどうかさえ宙づりにされたまま、「井の中の蛙」のものとして徹底的に挫折させられるんです。そうすることによって、プレイヤーは「悪人死すべし」というところから一転して内省せざるをえなくなります。つまり、善意に基づいて行動すれば幸福になれるはず、という理解はできるが短絡的な発想のリフレクションを要求するわけです。

 

F
たとえば児童虐待の問題と合わせて、厳罰化や死刑についても考えさせられる構成になっている、とか?

 

K
そこまで一般化する人がいるのかはわかりませんが。ただまあ死刑の問題についてはそれが本当に凶悪犯罪の抑止力となりうるのかという視点で議論をしないと意味がないと思いますよ。「倫理」とか持ちだすとかえって紛糾するだけな気がします。さてそれはともかく、「善意があればOK」というナイーブさを否定する優れた構成の祟殺し編と、「善意があればOK=通じる」をベタに肯定する罪滅し編の間の懸隔をよくよく噛み締める必要があると思いますね。

 

F
ちょっと待ってよ。言いたいことはわかるけど、鉄平殺しには沙都子への善意とともに彼への悪意があり、一方で鬼隠し編のレナたちの行為には悪意はないでしょ。祭囃し編の大団円とも通じるから方向性としては別に矛盾してはいないと思うけど。

 

K
なるほどそうきましたか。まあ私はあの大団円についても「みんな仲良く」という信仰や無責任体制に繋がる問題の多いものだと思っていますがね。では少し角度を変えてこういう話をしましょう。あなた、「津波てんでんこ」という言葉をご存知ですか?

 

F
いや、初耳だね。

 

K
これは東北に伝わる津波が来た時の行動に関する伝承です。簡単に言えば、津波が来た時に家族の事を気にしたりしていたらみな道連れになって一族が全滅してしまう。だから各々が自分のことを最優先にして全力で逃げなさいということです。さらに言えば、それが結果として他人の避難を促し、他人を救うことにも繋がる、と。実際、先の地震ではこの伝承を体現した中学生たちの行動が小学生の避難を促し、その地区の子供たちはごく一部を除けば全員無事だったと聞きます。逆に家族の事を心配して逃げ遅れれば、それを見た他の人間も縛られて共倒れになってしまったりするわけです。有事の際には家族のことを心配するものですが、まさにそのような相手を思いやる心、すなわち善意こそが惨劇を生むことがあるわけです。この言い伝えは、「まず自分の身を守りなさい」という緊急避難的なものを超えて、善意だけでは人を救えないばかりかより大きな惨劇を招来することがあることを示しています。この痛切な断念に基づいた伝承を思う時、レナや魅音の稚拙な行為、あるいはそれを肯定することが実に幼稚でナイーブなことに思えませんか?まあこのあたりは「嘲笑の淵源」で書いた極限状況での振舞の話と通じるものがありますが、所詮ひぐらしもまた日常に埋没した精神性を肯定する凡庸な作品であったか、と残念に思うわけです。

 

F
まあ確かに危険を顧みない消防隊や救助隊の美徳ばかりが喧伝されてるからね。君が前に取り上げた「終末の過ごし方」じゃないけど、信仰ってやつは知らず知らずのうちに作り上げられてるんだろうよ。

 

K
自分の大切な人たちの安否を気遣う気持ちはよくわかるんです。でもそういう善意に基づいた認識や行為こそが悲劇を生むという逆説に敏感でなければ、決して実感信仰から抜け出せないばかりか、たとえばよきものを集めたはずのニュータウンが凶悪な犯罪の土壌になるといったことからも目を背け続けることになるでしょう。「いい人」の問題とともに、よくよく考える必要がある事案です。さて、ここでもう一回確認しておきましょうか?

 

F
確認?

 

K
レナと魅音の行為は明らかに不適切かつ完全に失敗したにもかかわらず、なぜ肯定されるべきなんでしょうか?

 

F
それが善意に基づいているから、だろうね。

 

K
結果ではなく意図で評価する、そのような態度を「精神主義」と呼ぶことにしましょう。さて、ひぐらしって綿流し編で言及された731部隊や日中戦争を意識した日付、細菌兵器などなど明らかに二次大戦を意識し、かつそれを批判的な視点で描いてますよね。でも、精神主義的思考を肯定するんだったら、一体何がやりたいんでしょうか?丸山真男や山本七平の指摘が代表的ですけど、おかしいと思っていたのにその場の雰囲気に逆らえなかった、つまり「空気」に支配されるという問題があります。これはダム闘争の描き方からして作者も明確に意識しているはずです。そしてそれを問題視するならば、結果としてうまくいくか否かが重要であるという思考、またそれゆえに結果から逆算してどのような振舞いが必要かというまさに戦略的思考を身につける方向に行く以外ないわけです。「善意があればOK」などと考える連中は目の前の行為、すなわち献身や自己犠牲のヒロイズムに酔って大局的な目標達成を台無しにするでしょう。だとしたら、鬼隠し編でのレナや魅音の行為を肯定するなんてありえません。

 

F
行為としてはマズったけど善意に基づいているから肯定されるべきだ、というのは明らかに逆効果だと。

 

K
その通りです。二次大戦の例で言いましょうか。必死で戦ったから、あの戦争は肯定されるべきなんでしょうか?決死の覚悟だったから、特攻は肯定されるべきなんでしょうか?竹ヤリで戦車に立ち向かう訓練をすることは?大和って美化されて語られるけど、そもそもああいう作戦が取られる時点でもうダメなんじゃないんですか?とかね。「日本=絶対悪」で「日本軍=極悪人」みたいなのはまあ完全なる思考停止で話になりませんけど、一方でその人たちの精神性に敬意を払うことと、批判・否定を許さないことを混同してもいけないでしょう。それは別種の思考停止なのですから。それは先の地震の件で言うなら、節電すること自体に意味を見出し、どの時間帯にやるのが効果的か、あるいは無意味かといったことを考えない態度がそうでしょう。あるいは反原発などの運動をとにかくやる、つまり運動自体に意味を見出すことも同じです。運動そのものは企業や政治家にとって痛くもかゆくもありませんよ。結果を出すことこそ本義という見地に立つなら、不買運動や落選運動という形で明確にダメージが与える=デメリットがあると感じさせねばなりません。じゃなかったら、私たちは「みんなが苦しい時期なんだから耐えろ」、というよくわからない精神論と生活切り詰めに関わる自己満足を胸に生きることになるでしょう。システムの大半は温存されたまま、ね。日本人は節電に非常に協力的だと外国の人間が驚いてるとか報道されて喜んでる場合じゃありませんよ。

 

F
そういう状況って為政者にとってはありがたいだろうねえ。面倒臭くないから。

 

K
でしょうね。そうやって耐えさせてるうちに、いずれ牛肉と一緒で喉元過ぎれば熱さ忘れそうですし。まあこれは逆の状況を期待した皮肉ですけどね。

 

F
なんか原発の発表と大本営発表の仕方の類似といい、戦中と似た構図だなあ・・・そう考えれば、60年以上経っても中身は何も変わってないのかもしれないね。 

 

K
実際そうなんじゃないですかね。でまあ話を戻しますけど、そういう状況を変えたいと思うのなら、少しづつでも精神主義にテコ入れをするしかないんですよ。だから、戦争を批判するひぐらしが精神主義を肯定するなんてとんでもないと。まあもっとも、作者が「悪いのは政府だけで民衆はみな虐げられていただけだ」といったナイーブな二項対立思考をしているんなら話は別ですけどね。その場合はまあ「味噌汁で顔洗って出直してこいや!」って話ですよw

 

F
なるほどね。まあ皆殺し編では人を変えるよりも集団主義的な土壌を利用して「空気」を一新するという描き方をしているし、その辺の戦略は多少考えてたんじゃないかな?一人一人が決心していく様子にも一応スポットを当てているしさ。

 

K
まあそこは評価したいですけどね。ただまあそれは圭一という起爆剤、言いかえれば外部からのマレビトの存在あってのもので、結局外部要因というか外圧ないと変らないのか~、なんて思わずサザンの「ROCK AND ROLL HERO」てゆう皮肉の利いた歌を連想しちゃいましたけど。

 

F
しかしそこまで問題ありと感じた割に当時のブログでけっこう記事も書いてたし、期待してます的な話をしてたじゃない?

 

K
まあ鬼隠し編が最初に作られた話なんで内容的にはこんなレベルでもしゃーないかと思いましたし、解答編を作る予定もなかったから無理やりハッピーエンドにしようとして色々と綻びが出ちゃたんだなと一応理解はできましたからね。それに何度も言及してますけど祟殺し編はテーマや演出がしっかりしていたんで、まあ作者はある程度わかってやっているだろうと。とはいえまあそういう「妥協」をしたことは確かで、これ以降ひぐらしが私の予想を超えたテーマを展開して気付きをもたらす、ということはついぞありませんでしたね。ただ、鬼隠し編の真実と奇跡を見て感動している、というか疑問を感じない人たちを正直大丈夫なの?とは思いましたけど。ちなみに、そういう精神主義やナイーブさが平気で横行している様を見ているから、「共感」を喧伝するのはやめた方がいいって言うんですがね。狭い日常の領域に埋没する実感信仰ではなくて、一度それを離れる再帰的思考を要求するのが「共感」であって、前者と「共感」を短絡させる人間に与えたら単に自己正当化と排除を促進して終わりなんで。

 

F
なるほど。で、批判の噴出した皆殺し編を迎えると。

 

K
ですねえ。

 

(続く) 


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