鞠也に首ったけ

2011-12-31 18:29:37 | レビュー系

abgrundの「MARIA+MANIA」や聖リオの「まりあに胸きゅんきゅん Vol.3」における鞠也のエロスたるや凄まじいもので、注意しておかなければ腎虚になること請け合いである。

 

しかし一方で、原作(アニメ版)の鞠也は正直微妙と言わざるをえない。キャラクター造形云々以前に、そもそも存在感が薄いのだ。だからというわけでもないが、私が原作で興味を引かれるのはむしろ「いじめ」のネタ化についてである。具体的に言えば、陰湿な嫌がらせを描くものの、それを間抜けな内容にすることで無害化を図っているのだが、これは人間関係の軋轢がないことに対する視聴者の欺瞞・違和への予防策だと考えられる。そしてこの演出からは、「あずまんが大王」のような「空気系」と呼ばれる作品において、何が排除されている(描かれていない)のかが透けて見える。

 

とはいえ、ここで例えば「ヨイコノミライ」や映画の「14歳」などと比較してその欺瞞やリアリティのなさ自体を批判してもしょうがないだろう。視聴者の価値観に抵触しないよう作られたエンターテイメントとはそういうものだからだ(ただ、「ダメおやじ」という作品の「のろいのわら人形」のような話を見たら、あまりの意地の悪さに卒倒するのではないかと余計な心配をしたりはするが。ちなみに私は、家庭や会社にしがみつく中年サラリーマンの醜態と悲哀を見て取るとともに、定年離婚などいろいろ考えさせられた)。しかし一方で、そのようにして成立した環境は果たして本当に「平穏」なのだろうか?と私は疑問に思う。いや、もう少し表現を変えよう。コンフリクトの起こらない、生じえない環境・・・そういうものへの指向性こそが、「やさしい」関係性(文脈がわかりにくい時はこちらも参照)とでも言うべき同調圧力や「友だち地獄」を生み出している大きな要因となっているのではないか?

 

私がここで連想するのは、「ユメミルクスリ」というゲームである。そこではいじめを苦にして自殺未遂をする子の話が出てくるが、その時の主人公たちのやり取りは、「まあクラスの雰囲気を乱しちゃった彼女にも問題があるんじゃないの?」という遠い世界(=風景)のことを語っているように淡々としており、またあまりに短いもののように思われる。では彼らは「身近」な人間の生死にも全く心を動かさない「冷淡」な人間なのだろうか?あるいはその子を死ぬべき存在として忌み嫌っているのだろうか?そうではない。彼らにはその子への明確な悪意はないし、むしろそれぞれに「いい人」でもあろう。ただ彼らは雰囲気が重くならないように振る舞いつつ、「空気」を乱した罰を指摘しているだけなのだ。

 

このやり取りはあまりにさりげないので、たとえ違和感が生じても、ついうやむやにしてしまいそうになる。しかし、こうして描かれる出来事の重大さと反応の齟齬(=淡々とした会話)こそが、むしろ「空気」に配慮した「やさしい」関係性、言い換えれば「善意」に基づいた「空気」の酷薄さを見事に表現してはいないだろうか(「明日、君がいない」とはまた違った閉塞感の描き方だ)。そしてこのような複雑さや逆説に社会全体が自覚的にならない限り、たとえば「共感」のような概念が安易に流布することは、同調圧力と排除を促進する結果にしかならないだろうとも思うのである。

 

以上の見解が妥当ならば、「まりあ†ほりっく」における「いじめ」の演出方法は、日本社会の関係性の病理をよく映し出していると言えるだろう。

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