a supplement for the story of Mis.Ekoda

2012-07-02 18:43:04 | 本関係

臨死!江古田ちゃん!』に登場する「猛禽」に絡めて、「萌え」「空気」の問題を考えてきた。今回は、その「猛禽」に(あまり)関係ないトピックを扱っていきたいと思う。

 

<江古田という町>
実は私は江古田付近に10年ほど住んでいたので、作中でニヤリとさせられる場面が時折登場する。たとえば江古田ちゃんのヌードモデル話で出てくるのは日大藝術学部だとか(ちなみに武蔵大もすぐ近くにあります)、ドーナツ屋の残飯を回収して・・・というのは「これ千川通り沿いのミスドちゃうんかw」と突っ込んでみたり。またアニメのEDテーマで出てくる「江古田コンパ」とかは近くに「パクちゃん家」があって、パチンコ屋の前に新しくすた丼ができて、ふらんす亭はつぶれてすき屋になって・・・とかバリバリわかるので(わかりすぎて)半ば苦笑いしながら読んで(見て)いたりする。その他、武蔵大近くの天一は昔よく行ったなあとか、日藝の近くにあったGEOはTSUTAYAができた影響か潰れちまったなあとか、駅前のぺぺもたまに使っていたなあetcetc...と色々思い出したりする。

 

<結婚云々の話>
a rough draft about the story of Mis.Ekoda」でカラスヤサトシ(漫画の作者)が結婚したことで読者が噴き上がる行為について、「他人のことだから別に自分には直接関係ないんだし、祝っていればいいじゃないか(自分がそれに成り代われるわけでもないんだし)」と書いた。この話はおそらく「芸能人の整形がネタにされる理由」と密接に関係する。整形については「純愛という名の・・・」という記事でも交換可能性の意味合いで触れているが、あれは身近な人間の話なので、生理的嫌悪感含めてまだ理解できる(安部公房の「他人の顔」はまさにそのようなペルソナ・認証・交換可能性の問題を扱っている)。なぜ遠い存在の整形など気にするのだろうか?騙されたとか言うのかもしれんけど、そもそもが偶像(idol)なのにねえ。まあそこに人気タレントを作るカラクリもあるのだろうけど(親近感の演出)。まあそれを批判するより、徹底的に構造を解析して利用するのがいいと思う。AKBのプロデュース方法には非常に興味があるし(どうやって人を操作するか、という意味で)。そういやマガジンでアイドルのプロデュースを意識した作品があったが、ちゃんと読んだことがなかったな。今度目を通してみるか。

 

ラミー姐さん
ラミーさんがエロすぎてかなり困ってます。とりあえず自分がお姉系には勝てないというテーゼを再確認した次第w姐さんには「この卑しい畜生め!アニモー!アニモー!英語で言うとアニモー!」とか罵りながらシバいてほしいれす(*´д`;)…ちなみにアニメではラミーは登場しないが、その代わり(?)友人Mのハスキーヴォイスがクリティカルヒットでヤバイ感じでありますw

 

<最新刊について>
6/23(つまり「a rough draft~」の翌日)に6巻を購入したが、二つの点で違和感があった。 

一つ目。「江古田ちゃん」の特徴に関して、「『猛禽』と適応」で「涙を売りにしない」と書いたが、今回は全くそういう印象を受けなかった。特にP90とP130の本命彼氏(?)とのケンカはストレートに涙を売りにしていたので(今までは、泣くにしてもある程度距離を持ってその様を見つめていた感がある)。なるほど前者の例などは、「だから彼女より好きになれないんだ」という「それを言ったらおしまいよ」的な発言をされてのものなので理解はできるが、ここまで言われたらさすがに関係を切ればいいんじゃないかと思うし、かつ「江古田ちゃん」の場合(フィリピンパブの例などを除けば)時間が進まない=大きく関係が変化することがないので、まあなんだかんだで関係は続いていくんでしょ?とも思うのでインパクトまるでなし。おそらく、同じ話の繰り返しになりがちなので新鮮味を出す(強度の獲得)ためにテイストの違う話を入れてみました、ということなのだろうが、前述の理由でむしろ微妙な印象しか受けなかった。

二つ目。女装子やゲイなどセクシャルマイノリティの話題が結構大きく扱われていた印象を受けたこと。もちろん、女装子もゲイも全て以前登場したものではあるのだが、P89の友達がゲイだとわかった時の男の反応に対する主人公のリアクションは、ちょっと行き過ぎな感じがした。もう少し正確に表現しよう。まず、こういう反応をする男は(あからさまでなくても)普通にいるだろう、ということ。そしてそれにストレートに批判をぶつけても相手は理解できないだろうということ。以前の主人公であれば、それを理解した上で「ああ、まあこんなもんだよね」というカラっとした感じというか距離感があったように思う。たとえば同じく6巻のP9だが、女人禁制について怒るフェミニストが出てくるが、主人公はその発言に対して「女がいるとムラムラして困るけど、それを言うとカッコ悪いから適当な理屈づけしただけでしょ?」と話し、「怒りを取り去ることに愉悦を禁じ得ない」。このような態度が今まで貫かれていたように思うのだが、今回の話については結局ベタに言いたいことを言っているだけなので、「行き過ぎ」で無分別な印象を受けるし、またそういう読者って結構いるんじゃないかと思った(デリカシーのなさに対する苛立ちは理解できるけど)。

 

<セックス、ジェンダー、マイノリティ>
私は「『萌え』、無害化、ノイズ排除」において、ボーヴォワールの有名な発言を引いた上で「筆者(=私)の興味はもう少し違うところにある」と書いた。これについてもう少し説明しよう。確かに、ここからバトラーなどに話を展開していくことはできるように思える。実際、前述の女装子やゲイだけでなくSMクラブやフィリピンパブ、ストリップダンサーのようなお水系で働く女性が多数登場するし(その中に、自分が貧乳であることを気にしてそういう世界に入れば変われるのではないか、という自意識の問題で働いている子がいたことも想起)、また自分の性的オリエンテーションを確かめるべく試しに縛ってみようとナベで縄を煮ていたら・・・などというエピソードもあった。というわけで、一応そういう視点を前面に出して書くこともできそうではあったが、どうしてもそれが距離を産み出してしまう感がぬぐえなかった。これは前述の主人公の態度と関係するもので、そういう話をサラリと書いている点に「江古田ちゃん」の特徴があるのだが、それゆえ読者が読んでいる際の印象と大きく乖離して「ああ、そうなんだー」と抽象的で浮遊したものとして処理されてしまうように感じたため、視点として採用しなかった(これは「灰羽連盟」の初期の考察記事「再考」以降の記事の違いにも繋がる)。

ところで、最新刊の内容について先ほど厳しめに書いたが、一つさすがだと思ったのは、女装子の集団の中に入れば今度は女である自分がマイノリティになる(P29)、という話を入れていたところだ。これを入れた作者の意図を正確に図ることは難しいが、少なくとも特定の人・集団を特権化しているわけではないよ、と示す目的はあると思われる。もう少し詳しく説明すると、この話は「交換可能性」を示している。つまりマジョリティやマイノリティは、固定的な属性などではなく状況によっていくらでも変わりうるものでしかないという話だ。このような視点があれば、マイノリティが単に「可哀想な人たち」だとか、あまつさえ「善人」と考えるのは錯誤だとすぐにわかるのだが、私が疑っているのは、実はこの社会はその交換可能性を理解してないんじゃないか、ということだ。仮にそうだとすると、これはかつて「同情はできても共感はできない」と書いた理由でもあるのだが、マイノリティや弱者の救済というのを、自分もそうなりうるがゆえにその構造を考える(≒「共感」)のではなく、単なる恩恵(=同情)だと思っているんじゃなかろうか(余談だが、私が初めてロールズの「無知のベール」の話を見たとき、人がマイノリティになりうる危険性をそれほど考えたりするものだろうかと極めて疑問だった。というのも、そのような見地に立つためには前述したような再帰的思考を経なければならないが、それには経験、観察、他者性に基づく透徹した眼差しが必要不可欠であり、それを多くの人ができるかどうか甚だ疑わしかったからだ)。

今述べたことは、価値観や人種構成が多様化し、さらにベーシックインカムなどの社会保障やフリーライドの問題が前面化している今日、非常に重要な視点であるが、それについてはまた別の機会に取り扱うことにしたい。


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