私たちは、「全員正しく、全員愚か」

2019-07-19 15:38:16 | 生活

 

 

 

 

 

 

えれえ長え対談やな~。つか二人で何時間も何を話しとんのや??と半ば呆れながら見始めた動画だったが・・・

 

これは面白れ~(≧▽≦)!非常に本質的な話をしながら、同時にここまで笑える対談ってなかなかないぜw

 

半ば「復活した東浩紀独演会」の様相を呈しているが、これは相手が津田大介という点も大きいように思える。というのも、対談の場合は相手も多少突っ込みをするのが当然なのだが、東の反応として「え、この反応ってことは本当にわかってるのかな?」・「あーなんかわかってねーくさいからもう別にいいや」という「説明はするが説得はする気なし」とでもいうべき態度を取ることが多く、なんかもっと深く突っ込めばおもしろそうなのに尻切れトンボになるケースが見られるからだ。

 

その点、今回の津田はどちらかと言うと自分の活動報告をしつつもインタビュアーみたいなスタンスで話を聞いていたので、それが(対談の長さのみならず)ここまで深い話が引き出せた理由だろう。賛同するかしないかはさておき、独りの人間の思考過程がここまで引き出されることなどそうそうない、という意味で記憶すべき希有な対談だと思った次第だ。

 

ちなみに対談で出てきた要点を全て拾うのは実質不可能なので、いくつか挙げていく。たとえば、「差別はいけない」というのもまた差別である、といった思考様式をカントのアンチノミーになぞらえてその無効性に言及している。このような視点は、たとえば宮台真司の「言葉の自動機械」につなげて考えることもできるだろう。要は、その文脈や中身を考えず言葉に自動的に反応したり、あるいはレッテル貼りして党派性のもとに思考停止する態度である。するとそれは、東の言った「属性フォビア」の話ともつながるだろう。

 

しかし、ここで重要なのは、彼が人間の限界にもきちんと言及していることだろう。たとえば男性ばかりが評価者になることによって、ある視点が後景に退き、表面化した差別意識や悪意はないにもかかわらず、一定の偏りが生まれてしまう、ということだ。ここで勘違いしがちなのは、「悪意がないから問題ない」のでもなく、「悪意がないから改善しうるのでもな」。むしろ、「悪意がないにもかかわらず大勢として生み出されてしまう構造=抜きがたい性質」として、より大きく深刻な問題と認識する必要があるのだ。

 

以下、二つの例を挙げる。
一つは私の個人的な経験だが、大学の頃に半月板を損傷して時、和式便器は完全な「天敵」だった。洋式・和式と併設されていればまあ洋式を使う(それが空くまで待つ)ということもできるが、一度大学のトイレで和式しかないケースがあって、地獄のような思いをしながら用を足したものだ(ちなみにその時、和式トイレを支持する人間は全員私の「敵」になったのだがw)。なるほど最近では車いす用のトイレなども増えてきたから、こういう問題は減っているのだろうが、洋式と和式のトイレについて言及される時、私のケースのような足や腰に問題を抱えているケースの話題が出たのを聞いたことがないのは、いかに健常者がこういった問題に気づかないのかを私に教えてくれた。ただし、それまで私もそのような角度で和式トイレの問題点を意識したことはなったし、そこに悪意があったわけでもない。要するに、私達の問題発見能力とはその程度であるということだ。ちなみに、このようなトイレの設計は高齢化社会においてよりいっそう重要度を増すのは間違いないという意味でも、「足腰が悪いマイノリティのための施策」ではなく、「きたる未来をどう設計するかという我々自身の社会的問題」ととらえるべきである。

 

二つ目は、環境保護という視点。環境問題についてはあれこれ繰り返さないが、私たちが環境保護を考える時、たとえばマラリア蚊の「保護」であるとか、ツェツェバエの「保護」を考えるだろうか?少なくとも私は、そのような言説を見たことがない。「環境」という点ではベンガルトラもサンゴ礁も蚊もハエも、違いはないはずだ。にもかかわらず、なぜそうなるかと言えば、環境保護というものが、あくまで「人間というバイアス」を通じてのものでしかないからである。そしてそこに、明確な悪意が存在しないこともまた事実なのだ(ちなみに、私はこの限界を基本的に乗り越えることはできないと考える。なぜなら、「人類の存続に必然性などない」という論理的に考えれば当然出てくる発想について、ほとんどお目にかかったことがないからだ)。

 

先に述べた「悪意がないにもかかわらず大勢として生み出されてしまう構造=抜きがたい性質」というのはこういうことである。だからこそ、多様性が拡大する社会においては、選考員や管理職といった「評価者の多様性」も論理的に必要であると東は喝破するわけだ。私たちは、アファーマティブアクションなどについて、平等=善だからアファーマティブアクションも善だと、つまり倫理的な要請だと考えがちであるが、それは論理的な社会的要請であると言っていることに注意を喚起したい。

 

え?本当にそれは論理的な要請なの??たとえばガイドラインを作るとか、ケーススタディによる勉強会で問題は回避できるんじゃないの?なるほど、それらの対策はやらないよりやった方がいい。ただ、ここで極めて重要なのは、私たちが自分のたちの無意識の傾向や限界を真摯に受け止め、そこから議論やシステム構築の在り方をスタートさせることだ。私がしばしば短絡的な「自己責任」の大合唱に対し極めて批判的な態度を取るのは、それが「自分は、自分なら十全な判断力が(どんな場合でも)発揮できる」という自惚れに基づいており、それによって社会的な問題やアンバランスさを放置する結果を招くと考えるためである。

 

そしてこのような前提に立てば、東が二つ目の動画の冒頭で言う、「私たちは全員正しい、そして全員愚か」という言葉も飲み込めるのではないだろうか(ちなみにこの「全員正しい」を見てレイシストも正しいって言うのか!といった具合に噴き上がる人たちは、後半の「全員愚か」が見えてないということも含め「言葉の自動機械」と化していると言えよう。ちなみにこのことは、ナチスドイツの蛮行を教訓として理解するためには、ただそれを悪魔化するのでは愚かで、その構造を明らかにすることこそ重要だ、といった話にもつながる)。

 

この非常に印象的な文言は、しかし社会的公正を考える時だけに必要なものではない。東自身も繰り返し言及しているが、この手の議論をする際に陥りがちな病理は、マイノリティの側を「聖化」することである。人間が必謬性を負った存在である以上、体制―反体制、マジョリティ―マイノリティ、男-女、ストレート―LGBT・・・などと切り分けた時に(切り分け方自体に恣意性が混入するのはもちろんとして)、どちらかが絶対善・絶対悪ということにはなりえない(といってここで両論併記することがただ正しいという形の思考停止により日本は大戦に突っ込んでいった、という点にも注意を喚起しておきたいが)。

 

しかしそれにもかかわらず、マイノリティの側につく者たちはその人たちの負の面を見せないなど「虐げられた悲劇的存在」として祭り上げる。一方で、マイノリティの側につかない者たちはその負の側面をあげつらい、あたかもその人たちの主張全体が無効であるかのように言いがちだ(→以前書いた、シェイクスピア作品とプロパガンダの話も参照)。こうして問題提起と議論の場は、ただの投石場と化すわけである。

 

マイノリティ側を支援しようとする者は、善意でやっていることがどうして非難されるのか、と憤るかもしれない。しかし、そのような「善行」が今述べたようなスタック状態を作り出し、議論を不毛なものとするがゆえに、そのような「聖化」を避けなければならないのだ。ここもまた、「正しい」ことをやっていると思う人間が陥りがちな愚かさと言えよう。

 

他にも、この対談を見ていると改めてわかる東の弱点の話などもあるが、かなり長文になったのでそれは機を改めたい。


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