真の「はじめの一歩」となるか

2019-07-17 13:55:26 | 本関係

主人公の引退からどのような展開になるのか・・・と毎週「はじめの一歩」を読んでいるが、なかなか面白いことになっている。

 

「主人公がセコンド側の話って(青年誌ならともかく)少年誌で思い切ったことやるなあ」・「これは延命策なのか、それとも新しい何かの伏線なのかまだわからんな」という印象を持っていたが、半ばネタに見えた坊主→鷹村戦観戦と自己分析の流れからは、「もう一度坊主=求道者として自己を見つめなおす」という意図が読み取れ、久々に先が楽しみになっている(と読めば、己の弱点を克服した間柴戦を描いたのも、主人公の自省という大きな流れの中の一環として理解できる)。

 

さて、今回の鷹村戦は左(この場合はフック)を印象付けてからのストレート→ダウン、同様のパターンでボディ→ダウン→試合終了という展開だったわけだが、これを見て私が連想したのは井上尚弥である(作者が意識していたかまでは不明)。詳細は以下の動画を見ていただきたい。

 

 

 

 

前者の後半(パヤノ戦)は、距離の測り合いの中で(井上視点からすると左手で)タイミングをずらしてワンツーで沈めるという動きに注目されたい。後者は、要するに超一流のボクサーは相手を見極め、それをコントロールする「ボクシングIQ」が高いという話だ。

 

では、鷹村戦に比べてこれまでの「はじめの一歩」はどうであったか?宮田VSアーニー=グレゴリー、一歩VS沢村、鴨川VSラルフ=アンダーソンが典型だが、「愚直に戦っていたら相手が何か知らんが前に出てきてくれて勝てた」という戦いが少なくなかったのである(古い試合で恐縮だが、最近復刻版も出ているのでご勘弁)。特にグレゴリーや沢村は「対戦相手をどうコントロールして勝つか」という視点できちんと戦略を練ってきており(沢村の暴力行為を肯定するわけではないので悪しからず)、それが「意地」とか「根性」に敗けるという展開なのであった。

 

はっきり言ってしまえば、それは戦前の日本政府や旧日本軍の作戦と似ている。つまり、アメリカという国のメンタリティを理解できなかった結果として泥沼の日中戦争から太平洋戦争に突入し、またその戦争の中での戦力や練度自体は高いレベルにあるのに、「こう相手が動いてくれるだろう」という相手を見ているようで実は自分本位の作戦立案の結果、戦力を必要以上に消耗し続けたわけである(まあ『未完のファシズム』『経済学者たちの日米開戦』にも書かれているように、「合理的に考えたらアメリカと戦っても勝てないが、それを認めるわけにはいかないので、足りない分は精神力で補う」という捻れが深いところにあるので、そもそも発想が転倒しているのが自然と言えば自然なのだが)。

 

そのような精神主義は戦後の非武装中立志向もそうだし、要は敗戦の教訓は何も生かされていないのであるが、それと同じことが「はじめの一歩」でも描かれているのにいささか辟易してもいたわけである(とはいえ、鷹村VSイーグル戦のように、作者自体がそういった作品の傾向に注意して方向性を模索していたのは理解できたし、全てが嫌いなわけじゃないので読み続けてはいたのだが。ちなみにこのような傾向は、「とにかく頑張る>合理的に結果を出す」という意味で、今日のブラック企業や生産性の低さにも繋がるものである。ついでに言うと、「ひぐらしのなく頃に」を批判したのは同じ理由だが、そちらは日本の「空気」的なものへの批判的な描写を一つの柱にしていたがゆえに、特に問題=同じ穴のムジナだと考えた次第だ)。

 

閑話休題。
以上述べたような精神主義的傾向が「はじめの一歩」には色濃く見られたのだが、今回の鷹村戦で強調されたのは、「いかに相手を見極め(アジャストし)、相手をコントロールして勝つか」という真逆の視点である。これを一歩が真摯に受け止め自己を見直すということは、作品全体の方向性を見直すことにもつながりうる。その意味で、「久々に先が楽しみになっている」のである。

 

「はじめの一歩」の話からいきなり井上尚弥のことを書いたので、唐突に思われた読者もいるかもしれないが、井上が今やpound for poundの最上位にいることはご存知の方も少なくないだろう。その時に、(まさに今週号で作中にポスターとして登場するが)リカルド=マルチネスと戦うこと、のみならず彼を倒すということは、一歩が紛れもなく井上のような存在になる必要があることを意味している(余談だが、井上の所属するジムの会長大橋秀行は、マルチネスのモデルとなった伝説的王者リカルド=ロペスに敗れて王座陥落している。ついでに、GDP3位=世界の最上位にいる日本経済を復活させようと真剣に思うなら、先に述べたような戦略的思考ができなければ話にならない、ということも付言しておきたい。要するに、先日の孫子の動画も、保守主義の話も、今回の「はじめの一歩」の件も、全てつながっているということだ)。これが、井上尚弥の戦い方をアナロジーとして取り上げた理由である。

 

「はじめの一歩」がこの新しい道を突き進むのかどうかはまだ不透明だが、もしそうなのであれば、実際に彼が引退するのであれ、伊達(あるいは実在の人物で言えばジョージ=フォアマン)のように現役復帰するのであれ、最後まで見届けたいと思う次第だ。


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