願望、交換可能、未規定性

2013-02-27 18:19:29 | 生活

さて、「沙耶の唄~『純愛』なる印象の必然性~」、「同~視点の違いとその整理~」、「同~『属性』と交換可能性~」を通じ交換可能性・不可能性を扱ってきた。ここでは、「沙耶の唄」という作品の枠を外して話を先に進めていきたいと思う。

 

「お前の代わりはいくらでもいる」というセリフは、人間を組織や機械のパーツ扱いする輩の暴言として引き合いに出される(「モダン・タイムズ」におけるチャップリンの批判も想起)。あるいは、作中人物が「自分がいなくても、世界は何も変わらない」といったセリフを吐くものもある。しかしそれらは、「本当は人間一人ひとりにかけがえのない存在価値があるのに」、それが見えない酷薄さや絶望、つまり個人的な資質・錯誤として囲い込みが可能なものでしかないように思える。

 

しかし今日の世界では、その「かけがえのなさ」、すなわち交換不可能性がもはや目に見える形で崩れつつある。これはクローン技術の進歩が象徴的だが、もう少し「軽い」ものとしては芸術(表現)が挙げられる。これは「ねとすたシリアス」という対談で言われていることだが、pixivというお絵かきサイトにおいて、たとえば「抽象絵画」といったタグで検索すると、同じようなものが一気にサムネイルとして一望できる。その結果(熱心さに違いはあるだろうが)、それなりに時間や意を用いて表現したはずのものが、凡庸で交換可能なものにすぎないということが誰でも一望できる(可視化された)状況にある、ということである。もちろん、これだとアマチュアたちの趣味とプロの芸術を一緒くたにするな、という反論が出てくるだろう。ただそれに関しても、東浩紀が「Becoming Edvard Munch」、つまりアメリカで行われたムンク展に触れている。そこでは、本来個別の作品として見るがゆえに作家性=交換不可能な特性が自明だと感得しているはずのものが、同じような題材ごとに(=タグづけして)一覧化されると、一気にそのような不可侵性がゆらいでワンノブゼム、となる、という状況が生まれているのであった(これはベンヤミンの『複製技術時代の芸術』とはまた違ったレベルの問題で、オリジナルーコピーの落差ではなく、オリジナルが一種のアーカイブ化され、もはやオリジナルにさえアウラを感得しえない状況になってきていると言える)。もちろん、これをもってたとえば個々の作品が無価値になったとうそぶくのは言いすぎだろうが、それでも交換不可能性が自明なものでは全くない、ということが多くの人の目に明らかな状況となってきている点はいくら強調してもしすぎることはないのである。

 

このような状況と並行して、認知科学の進展は人間の「動物性」あるいは「機械性」とでも言うべき側面を明らかにし、人間の無意識という「深淵」の存在を自明のように考えていた精神分析の虚構性を暴きつつある・・・といってもあまりピンとこない話だろうが、たとえばオウム事件では薬物投与により神秘体験が再現可能=誰でもできる=交換可能であると暴露されたわけで、(怪しいと思いつつも)何か神聖なものと思えるものさえ急速にその不可侵性を脅かされている状況と言える(フィクションではあるが、グレッグ=イーガンの『祈りの海』はイメージとして理解しやすいだろう)。このような現状理解を踏まえれば、私が「純愛」(の感情)もまた交換可能でありうるとする立場をとり、またそれを「ポストモダン的」と表現した理由は容易に理解されるところだと思われる。

 

「そんな酷薄な現実は嫌」だって?それはまあそうだろう。「不可侵性に何の根拠もないからって、実際いつでも交換できるものみたいに扱われるのはまっぴらゴメンだ。」おっしゃることごもっとも。じゃあそれをもとにして、次の記事に繋がる例をいくつか挙げておきましょうか。なお、先に「スポーツマンシップ」理解の三段階に関する記事を読んでおくと、理解がしやくなると思う。

 

(ex1) 「生きる意味はあるのか?」
「自分の生に意味があってほしい」ということと、「実際自分の生に意味がある」ということは全く別のことである。そして、「だったら意味があると思った方が人生楽しめるし合理的じゃね?」という態度もまた違ったものである。

 

(ex2) 「人類の存続に必然性はあるのか?」
「滅びたくない」という願望と、「滅びてはならない理由など存在しない」ということは両立しうる。ちなみに、後者は「人類は滅びるべきだ」という立場とよく勘違いされるが、それは(価値判断という意味で)全く別の話だ。

 

(ex3) 人間の貼付、もとい「天賦の権利
たとえば日本国憲法には「基本的人権の尊重」という項目がある。また他国でも、古くから生まれながらにして存在する権利として「生存権」や「自然権」が措定されていた地域もある。ところで、これらの権利は実際のところアプリオリに存在するのだろうか?これは『帰ってきたソクラテス』の「タダほど安い人権はない」という項目での喩えだが、無人島に行って「自分には生きる権利がある!」と宣言することに何の意味があるのだろうか?それを言えば「生存権」として一定量の食料が保証され、あるいは自分が捕食されることはなくなる、とでも??・・・とこのように考えればわかるはずだが、「基本的人権」といったものは人間の間で後付けされた取り決め=擬制にすぎないのである(まあ偉そうに書くほどのことでもないがw)。

要するに、望まずに殺されたくないという願望と、生きる・殺されない権利が実在するというのは全く別の話である。しかしだからといって「基本的人権」の歯止めを無くしてしまったらどうなるか?という思考(=社会契約の重要性)に到れば、前述の「スポーツマンシップ」の三段階で説明できることがわかるはずだ(ちなみにもっと別の視点で言うと、擬制にすぎないという認識が殺人の敷居を低めるなら認識させない方が社会にとっては合理的なのではないか、という視点もある)。これは「信教の自由」が生まれた背景も参考になるだろう。

 

さて、以上のような考え方をニヒリズムと勘違いする人が多いが、そのような評価はたとえば「ゆえに全ては無意味だ」とか「この世は全てオナニーw」などと結論して終わる「だけ」の態度に向けるべきだろう(ついでに言えば、「生きる意味はない・わからない」といったことは端的な事実であって、むしろそれが「ある」のを自明と思う行為こそ信仰そのものではないか)。私が重要だと思うのは、「そのような未規定性にもかかわらず、それでも生きてしまっている」ということに他ならない。数年前の記事で引用した言葉には、それがよく表れている(ちなみに、この作者の代表作である「ぼくらの」やそのアニメ版の「アンインストール」の歌詞は、そのような酷薄さやその理解、そしてそれゆえの哀しみを適切に表現している。あるいは「魔法少女まどか☆マギガ」も類似の傑作と言うことができる)。

「かけがえのない命」。
そんなモノに救いを求めていても先には進めません。
あなたがいなくても、たいして困りません。
自分がいなくても、まったく困らないでしょう。
だからこそ、無くてもよい存在だからこそ、がんばるのだと思うのです。

前述のような見地に立てば、自然に出てくる言葉ではないだろうか?

 

さて次回は、それらを踏まえ交換不可能性と未規定性がもたらす酷薄さの話をしていきたいと思う。

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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-05-11 17:44:26
まあ、小難しい事は分からんが・・・

おそらく、かなり同意できると思うわ(^^)

俺は
「あなたは特別な存在で、あなたにしかできない事がある」とか

「あなたは使命があって生まれてきた」とか

「あなたの代わりはいない」とか

そういう事をすぐ言うヤツは人として信用できません(まあ、建前論で言わなきゃいけないこともあるとは思うけど)

生きる意味とかは「探す」ものではなく、どうしても欲しいなら「創る」ものだと思うな(^^)
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Unknown (Unknown)
2018-06-05 02:21:24
五年も前の記事だから今さら感は強いですが……自説の整理を含めて書きます。

>「かけがえのない命」
そんなモノに救いを求めていても先には進めません。
あなたがいなくても、たいして困りません。
自分がいなくても、まったく困らないでしょう。
だからこそ、無くてもよい存在だからこそ、がんばるのだと思うのです。

“この詩に筆者が納得できること”が納得できませんでした。。単純に、「無くてもよい」→「がんばる」というのに因果関係があるとは思えなかったですし、「生きていることに対する意味付けが為されないけど、生きちゃってるじゃん」には事実以上の価値を感じません。

わたしは生きる意味がないことには大いに賛同しますし、いずれ地球が太陽に呑まれることを思えばどんな歴史的偉業も結局は無意味だと思います。
ただ、わたしが生きる意味がないから鬱々しているかと言えばそうでもありません。いえ、少子高齢化という地獄へのベルトコンベアができているのに真剣に向き合おうとしない政府にも国民にも絶望はしているのだけれど、でも即座に死にたいかと言われればそうでもありません。

それは結局のところ、首を吊って死ぬのが大して苦痛のないことだと法医学者が証明しているからであり、飛び降りが注射ほども痛くないことが『完全自殺マニュアル』に書かれていたから、というのが大きいです。
ニヒリストであっても彼岸の存在は否定できない。死というものが「何か」はわからなくとも、死が「在る」ことだけはわかっている。否定できない。
死ぬ時の苦痛が過少なものだと知っている。我が手にいつでも自決できる権利を持ち得る限りは、「ダメだったら死ねばいいじゃん」のノリで、ずいぶんと生きやすくなる――そうわたしは思っています(類推するなら、『イヤならやめればいい。だけどそれは何時でもできるんだから、本当に諦めがつくまで続けよう』といったところでしょうか)。
要するに、『死を宗教化』してしまえばラクなんですよ、いろいろと。この世がどんなにくそったれでも、どんなに孤独であろうとも、死ぬ手段さえきちんと選べば苦痛はほぼない。――さればこそ、わたしたちは此岸にいるときは、自分の好きに生きればいい。そう思ってます。

筆者が納得するかはわかりません。わたしには筆者がどこかで書いていた「暗闇」理論がよく理解できなかったので。「死の痛み」を怖がるから死にたくないというのは理解できても、死の先に「何も無い」から怖いというのはわたしには想像できないのです。いいじゃん、わかんなくても。死の先には何もなくとも、最期の痛みが僅少なら思い煩う必要があるとは思えません。毎日眠る時と一緒。意識が喪失するなんてことは日常にありふれた出来事なので、何を以て「何も無い」ことを怖がるのかわからないのです(眠ること自体を怖がる人を見たことがない)。

ま、わたしには恨んでいる人もいないので、特殊清掃員さんを煩わせないような迷惑にならないトコロで死ぬ予定ではあります。でも、まぁ、BIなしで人工知能による雇用破壊が進めば、あるいは少子高齢化の毒牙に蝕まれる人が増えたら、三万人なんて数ではなく加速度的に自殺する人が増えるかもしれませんね。
くわばらくわばら。
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Unknown (ムッカー)
2018-06-07 01:44:19
コメントありがとうございます。

改めてご指摘を元に読み返してみると、5年前の記事とは言え、随分と脇の甘い内容だなあと思うところ大ですね。まさしく、「無くてもよい」→「頑張る」に因果関係はなく、別に個人の趣味の問題ですので。コメントにもあるように生きているのは端的な事実性であってそれ以上でもそれ以下でもないというのはまさしく同感です。それを前提としてどう生きようとするかは、その人次第でしょう。

さて、このような発想を個人的には是とし、また生きる上での解放となり得る点に同意する一方で、社会のマジョリティがそういう発想になりうるかどうか、という点については懐疑的なところではあります(「暗闇」理論というのが何であったか明確には覚えていないのですが、私が個人的な話ではなく一般論として書いていたのだとすれば、こういう懐疑に基づいているのだと思われます)。

生きる意味はない、彼岸も気にすることはない(気にしたところでしょうがない)というアタラクシアの元にみなさんが生きてくれれば(そしてお好きな時に勝手に死んでくれれば)話は早いし別にいいのですが、それが不全感となって凶行やおかしな排外主義に繋がるようであれば、それを個人単位の価値観としては是としても、世に広めるのは(まあそもそも広まるのか問題もありますが)思わぬカタストロフを招く可能性もある、という危惧はあります(というか、トランプ現象やブレグジットなどを見ていてそういう懸念は年々大きくなっていっている、というのが正確なところでしょうか)。

であれば、そのような不全感に堪えられない(少なからぬ数の)人に対しては、「生きる意味はないという前提の元にどう生きるか?」というエートスを説いたりインストールしたりするよりもむしろ、最終的にはマトリックス(でもキャンDでもロボトミー手術でも何でもいいですが)的なるものを提供して人畜無害な存在となっていただいた方がいいのかもしれないなあ、と思う今日この頃であります。

返信というより半ば最近の考え方の説明になってしまいましたが、とりあえず以上のように考えています。
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