沙耶の唄:異物に対する同一化傾向

2011-09-04 18:02:23 | 沙耶の唄

 

 「沙耶の唄」考察シリーズもこれでようやく一段落。まあ原文が覚書と解説の形式になっているので、今さらあれこれ説明を加えても煩雑さを増すだけだろう。要点だけを言うと、

作者虚淵玄は、「沙耶の唄」が予想に反して「恋愛モノ」として評価されたことに戸惑い、沙耶を異物として捉えることが普通の反応であるかのように述べている。しかし私にはこの意見が妥当性を欠いたものだと思われた。そこで「二項対立と交換可能性」では主人公主観という演出方法の特徴(問題点)を指摘し、「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」とこの「異物への同一化傾向」では作品が受容される環境について説明した。

以上終了。あとは無意識にこのような善悪や人間と異物の交換可能性が描かれまた受容もされたことについては、「デスノート」の描き方とその受け入れられ方(広がり)も含めて「日本的想像力」を考える上でおもしろい、とだけ言っておこう・・・

 

なんて言いつつもう少し詳しく説明。
インタビューから明らかなように、「デスノート」の作者は善悪やイデオロギーを描いていずれかに正義(別言すれば「大きな物語」)を設定することを意図的に避けたようだ。しかしその理由が「危険だし、マンガとして面白いとも思えませんでしたから」と説明されているのは非常に興味深い。というのもこの発言を文字通りにとるなら、「もはや誰もが合意する『大きな物語』は成立しえない」といった思想的基盤がデスノートの描き方を決定づけているわけではないからだ。むしろ逆に、「そのような方向性は作者の善悪観を受け入れない読者層を遠ざけたり(=危険)、物語の幅を狭めてしまう(=面白いとも思えない)」といった理解に基づく戦略的方向付けが、結果として今日的状況を反映した作品となった、とみなすべきだろう。そしてこの理解が正しければ、宇野常寛が「リトル・ピープルの時代」で取り上げた仮面ライダーの方向性(+「ウェルメイド」と「ハイブリッド」の境界)と非常に似通っていることになるわけだが、そういった作品のあり方+受容のされ方を「沙耶の唄」と比べてみるのもおもしろいだろう、ということだ。 

 


<原文>
沙耶のビジュアルが持つ意味とそれが与えた影響、またそれに関する作者の無理解について、「沙耶のビジュアルが持つ意味と効果」から始まり「構造への無理解」まで論じてきたが、今回の記事をもって当該の問題もようやく一段落となる。さて、後半に掲載した覚書だが、すでに一連の記事で使用しているものがほとんどなので特に目新しい発見はないと思われる。そこで最後に、あえて言及を避けてきた誤読の要因を取り上げ、問題提起をしておきたい。


これまでの記事で明らかにしたことは、沙耶の唄に対する「恋愛もの」という評価に作者が戸惑い、その要因を全く分析できていないこと、そしてその原因がプレイヤーに対する時代錯誤な作者の観念にあるというものだった(「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」)。そしてそのような大枠を踏まえた上で、今度は主人公主観の影響と郁紀・耕司の視点が等価なものとして扱われていることを「二項対立と交換可能性」という記事で言及し、最後に具体的な内容のレベルで人間と沙耶の二項対立を印象付けるには全く逆効果のエンディングを作ってしまっていると述べた(「エンディングの失敗」、「続エンディングの失敗」)。


私としては万全の準備をしてのぞんだつもりだが、読者の中にはその内容があまりに迂遠だと感じた方もいらっしゃるのではないかと推測している。というのも、沙耶に対する同情的な眼差し(=沙耶への人気+「恋愛もの」という評価の成立)は、「異物=人間以外の存在に対する日本人の同情的・共感的態度」という説明でほとんど解決してしまうように思えるからだ。もちろん、「日本社会の文化・環境的要因によって培われる」という限定を付け加えることによって日本人というものが生得的そうであるかのごとく錯覚させるような物言いは避けなければならないが、それでもロボットや怪獣に対する同情的な態度は沙耶に対する評価を考える上で示唆に富んでいる。


より具体的な話をすると、例えばロボットという言葉・存在は1921年にチェコスロバキアの作家チャペックの著した『R.U.R』が初出だが、そこでロボットは人間に仇なす存在として描かれている。これを日本のロボット(例えば鉄腕アトムなど)と比較してみるのもおもしろいだろう。あるいは怪獣について個人的な経験から言うと、子どもの頃に見たゴジラのラストシーンで、首相役の小林桂樹(たち?)が溶岩の中に沈んでいくゴジラを見て涙する理由がわからず、母親に尋ねたということがあった。母親がそれにどう答えたかまでは覚えていないが、今思えば死にゆく者への憐れみだったのだろう。そのように理解は可能だが、恐るべき敵をようやく倒して快哉を叫んでもおかしくないシーンをこういう展開にするあたり、異物に対する同情的な姿勢がよく表れていると言えるだろう(なお、少なくともamazonのレビューを見る限り、このシーンに対して違和を表明した者はいない。まあそれまでゴジラが地球侵略を目論む怪獣などを相手どって戦ったりしていた、という事情もあるのだろうけど)。あるいは生物意外について言えば、筆供養などの存在は日本社会の物質に対する親和性を象徴しており、例えばハイデガー的な「人間―石」という二項対立的捉え方とは異なっていると指摘することが可能だろう(「共感」や「感情移入」とその独善性について度々言及しているように、私は必ずしもそういった傾向・心性に肯定的なわけではない。「君が望む永遠:鳴海孝之への反感とキャラへの埋没」なども参照)。要するに、「人間―人間以外の存在」の境界が曖昧ということである。


もちろん、他のアジア諸国との比較などが必要なのは言うまでもないし、よく言われる排他性とどう共存しているのかも無視できない問題である(そういった問題を挙げだせばキリがないからこそ、今まであえて深入りを避けてきたのだ)。とはいえ、そのような傾向を持つ社会や作品群の中で成長した結果、作品への向き合い方も似通った特徴を持つに到るというのは容易に想像できる事態である。


以上のことから、多くのプレイヤーが沙耶の唄を「恋愛もの」と評価した原因の一つとして「異物(人間以外のもの)に対する同情的傾向」の存在を指摘しつつ、一連の論考の結びとしたい。

 

<序文>  「エンディングの『失敗』」
交換可能性と二巧対立についてはすでに述べた通り。それを成功でも失敗でもなくあえて「失敗」と呼ぶのは、郁紀と耕司の側が大して違わないという交換可能性が主題ならこのエンディングは非常に重要な役割を果たすだろうし、一方で作者の求める「沙耶=異物」という二項対立的な視点についてはそれを挫折させるような内容になっているからである。ではその「失敗」がどのようなものであるか詳しく述べていくことにしよう。


<5,4,3,2,1と数字だけの記事>  
[沙耶の唄に関する]記事の目的…1.インタビュー内容の批判、2.[作者の期待と誤読の内容を]二項対立的に述べることでそれぞれの特徴を明らかにする、3.[インタビューの内容が]本当に韜晦ではないか確認作業。虚淵発言のナイーブさ…結局沙耶を異物として「しか」見れていない→[宗教戦争などの]異物の排除を「狂気」とまで表現していた割にナイーブすぎ。マトリックス、ツェツェバエ(※)。YU-NOエンディング…永遠の二項関係=所有の完成。Airとの対比、セカイ系?女性の設定やそれとの関係性。前提が無い…人為100%がいつの間にか「信仰」になっていたことを思い出す。[目明し編の時に書いた]一石を投じるための「古手梨花の予言」。シニカルさは全く信用ならない。むしろ「君は何を知っているのか?」と問いかけたい。


これ以降の部分はかなり説明が必要と思われる。
まず「ツェツェバエ」というのは、沙耶を人間と等価だと見なした場合に出てくる批判を想定したターム。いくら環境保護を訴える人でも、例えばツェツェバエやマラリア蚊の駆除に反対する人はほとんど皆無ではあるまいか。要するに、人間がいくら動物を理解したつもりになったり、同情したりしても、それは(当然のことながら)多分に選択的なものに過ぎない…という話。「ディスコミュニケーション」でも触れたように、プレイヤーの沙耶に対する入れ込みは沙耶の学習と郁紀の知覚障害という二重の限定の上に成立していることを意識する必要がある。沙耶に「共感」・「感情移入」したなどと安易に考える人は、そういう前提ないしは「擬制」の存在を忘れていると言わざるをえない。

ちなみに、「YU-NOエンディング」から先は沙耶と無関係。YU-NOに関してはかつて「エンディング批評」を書いたが、それを別の観点から考察しようとする準備である。なお、「前提が無い」から先は考察のための一時的な枠組み(仮説)がいつの間にか遵守すべき前提(真理)としてひぐらしプレイヤーの思考を限定せしめていたことを指す。翻って、それは思考の枠組みそのものへの意識を忘れて思考に耽溺する者たちへの批判となるだろう(=シニカル幻想)。


人間もエミュレーター>  
それ[=沙耶の行動様式]が後付けの「エミュレーター」に過ぎないってんなら、人間はどうなんだい?それらは本能としてほとんどの人に先天的に備わっているのかな?認知科学の時と逆の話になるが、しばしば「本能」や「本性」は作られ、変化してきた。たとえば母性愛、子供という区分、家族の形態、男らしさ、女らしさ等など…いったいどこまでが先天的でどこまでが後天的なのか?我々は始めから人間であるのか、それとも後天的に人間となるのか?「エミュレーター」の見解を見て感じるのは、作者が実は人間(の特殊性)をけっこう信頼してるんだな、ということ。だから二項対立的視点になるのだろう。


歴史学の社会的意義」などとも関連するが、この手の話は誰だって知っている。問題は、それを軸にして考えられる程度まで理解しているかどうかなのだ。


<母性という神話>
近代社会において作り出されたものにすぎない。少なくとも、あらゆる人に備わっている「本能」・「本性」などではない。国民国家、出生率、授乳、母親の世話への注目→それがあるべき姿、自然。父の後退。子供の誕生。


例えば精神分析で言うと、抑圧を軸にした構造が真理なのか、解離を軸にした構造が真理なのか、それはわからない。ただ、抑圧の説明が上手く当てはまる社会、解離の説明が上手く当てはまる社会が存在しているだけである。つまり、それぞれ真理を描きだしたというよりもむしろ、ある特殊具体的な社会(状況)を説明しようとする枠組みにすぎないのである。


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