沙耶の唄覚書:構造への無理解

2011-07-29 18:17:54 | 沙耶の唄

シニカル幻想」の続きもの。原文ではあれこれ説明しとりますが、これは「鳴海孝之への反感とキャラへの埋没」や「『ヘタレ』と自己認識」、「ヘタレ、凡庸、埋没」といった「君が望む永遠」関連の記事、あるいは「アルマゲドン的呪縛からの離脱」で書いたようなメタ視点の欠落とリンクする。たとえば、キャラが完全に作者の手の内にあると考えるのは時代錯誤もいいところだが、かといってキャラが完全に自律した存在(意図とは無関係)というのも単なる妄想にすぎない、とかね(「真版 なぜ感情移入できないのか?」)。そういう引いた視点の不在は、歴史学をやっていた立場からすれば非常にナイーブで危ういものと映るし、だからたとえば二次創作が溢れていることも単純に多様性の許容だとは思えなかったりする。なお、原文にある「エミュレーター」の話は「人間的」なるものを話題にするならこれでいいが、「人間」なるものを話題にするなら中絶などにも関わってくる。

 

とか何とか。しかし最近倦怠感がすごいわ~。なんつーか色々飽きてきてんのよね。この話題にも、ブログにも、日常にも、セカイにも。デスノートでも降ってこねえかあwところで、あなたは絶望してもいいから事実を知ることができるのと、事実を知ることはできない代わりに絶望することなく生きていけるのはどっちがお好み?

 

<原文>
前回表題とした「シニカル幻想」というのは何を指すのか?
シニカルとは「どうせ~なんでしょ」と斜に構えたり、「わかっているけどあえてやる」ような態度を指す。つまりそこには、「わかっている」という前提が必要となる。ところが、君が望む永遠に関する「鳴海孝之への反感とキャラへの埋没」で書いたキャラを軸にしてしか考えられない態度、あるいは「サブキャラシナリオの批判性」で書いた白紙の主人公に対するアイロニー、さよならを教えてに関する「世界観の意味するもの」で書いた「泣きゲー」への批判性、そして一連の沙耶の唄関連の記事を通して明らかになったのは、これらの作品に関するレビューを見る限り、彼らが話の形式・構造のレベルでは全く理解できていないどころか、そもそも考えようとしてさえいない、ということであった(「恋愛ADVの主人公が鈍感である理由」[現在削除している]も同じ方向性で書かれている)。


もちろん、この事自体について彼らの見解の一面性を批判することもできるが、何より重要なのは、彼らの「そんなものわかってやっている」という口先だけの言葉に乗せられ、いたずらに持ち上げたりしないようにすることだ。掌の上で踊る孫悟空を鑑賞して楽しむならともかく、その様に真面目に感心したり可能性を見出そうとするのは愚の骨頂でしかない。「シニカル幻想」という表題に込めたのはそのような意味である(→「エロゲーにもエロゲーマーにも期待できない」)。


さて、少し前置きが長くなってしまったが、覚書の方に入るとしよう。


<徹底的な具体性> 
沙耶とのつながりを確認しあった翌日に瑶が振られることは必然以外の何物でもないが、一方で青海の怒りの描写、あるいはその妥当性に不思議な驚きを覚えた。ごくごく簡潔に言えば、私はどちらかの側に立った作品になるであろうと推測していた。誤解を恐れずに言えば、その程度の作品だと考えていたからである。しばらく眠る(エンド1を選んだときの反応)→エンド1で確定的に(=「エンディングの『失敗』」)。じゃあ麻薬中毒は?→事故という偶然性、モルモットにされるので隠すという必然性(医者の卵)…「記事の分量と凶行の相関関係


<脂肪取引、甘え、神経症>  ※後半は全く無関係
誤読の要因が分析できていないことは、様々な発言から読み取れる(恋愛モノだから恋愛モノ→白痴。何ためのPVよ。not自分の力量不足but誤った時代認識でしょ)。エロ同人イナヅマ佐藤とか。年いっているのにエロエロおねいさん。エロエロおねいさんいるところに俺あり。絶チル…エスパー少女肯定→皆本の態度(萌えは局長でカリカチュアライズ、ましまろの伸恵)→少女たちの好意というサイクル。要はエスパー少女たちに安心して萌えれる構造が用意されてると。刀を抜く時は常に慎重であれ。さもなくば、後に復讐への恐れかその現実化により、ひどく後悔することとなるだろう。


<具体の前に> 「市場分析の欠落と誤読
クラシックが好きだ。みなクラシックが好きなはずだ。~なければならないは違う(泣きゲー嫌い=好みと趨勢混同すな)。さすがに後者のように宣言するほど[作者は]愚かではないが(誤読の自由への言及)、二年という期間を経てもなおそう考えていることは、彼が実のところ何も理解していないことを示している(口だけなら何とでも言える≠パフォーマティブ)。抽象的な批判に聞こえるなら、おまえが何を好きかは自由だけど、市場分析くらいやったらどうなの?という話。批評家ではないからエピステーメーがどうだとかは考えないとしても、それはゲームメーカーとしても必要な領域でしょ?


<エンドの失敗>
交換可能性にとっては完成、異物としては失敗。生殖や生存に相反する非合理的振る舞い、逸脱への赦し。その非合理性をも「エミュレーター」の中に含めるのであれば、有名な狼少女や「アヴェロンの野生児」の話を想起しつつ「後天的に人間になるのか?それとも初めから人間であるのか?」と問い掛けたいところだ。


ちなみに「人間になるのか?人間であるのか?」という問いは、実のところ「人間」なる言葉の定義付けをしっかりしておかないと、例えば条件なしで「X+Y=5」という式を解こうとするかのごとき不毛さに陥ることとなるだろう。


<エンド1の多義性>  「必然性のないエンディング」
矛盾するように聞こえるかもしれないが、[私は]破局の可能性と同時に、主人公の認識が元に戻れば、それで事態が解決するのではないか?とも考えていた。なぜなら、彼の認識は変化したけれども、美醜の感覚は変化していないからだ(エンド1の後になるが、人間に見える瑶を傷つけることを躊躇う郁紀の姿が終盤でも執拗に描かれていることに注意を喚起したい)。ゆえに世界が元のように見えることは、心の安寧を意味する。しかしその予想が否定される→そんな単純ではない。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 思いついた瞬間に自分を殺し... | トップ | 探究1 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

沙耶の唄」カテゴリの最新記事