藤田浩之=F 柏木耕一=K
F
やあ、初めまして。今日はよろしく。
K
こちらこそ。
F
もうレコーダーは回ってるから後は普通に喋ってもらえばいいよ。
K
普通にって…録音されていると思うとなんか落ち着きませんね。
F
そう?じゃあこれでいいかな?
(何か被せたのか、以降音声が聞きとりにくくなる)
さて、じゃあまずはひぐらしとの出会いから話してもらえるかな?
K
2005年1月末に体験版をプレイしたのが最初ですね。おそらく1月21日だったと思いますが。
F
まあ細かいことはいいや。プレイしたきっかけは何なの?
K
当時メッセを結構やっていたんですけど、その中で友人の熊八から「サイド3のなく頃に」という画像をもらったんですね。で、このネタ画像の元を聞いてからサイトに飛んで体験版をDLしたんですけど、最初は単なるネタゲーだと思っていたのでギャップに驚きましたね。
F
まさに誤配ってやつだ(笑)
K
それで何だかよくわからないまま話を進めてたんですが、TIPSなど含めるとあまりに情報量が暗示的かつ膨大なので、確か5年目の惨劇の翌日くらいから気になったところは全部メモるようにしたんですよね。
F
なるほど、そういった点でもブログに影響を与えているわけだ。
K
まあそうですね。で、確かDLの翌日に体験版を終わらせ、続きが気になってそのまま夕方池袋の虎の穴に直行し、暇潰し編まで収録したものを買い、22~23日で綿流し、23~24日で祟殺し、24日で暇潰し編を終わらせたんだったと思います。
F
まあなんというか、よくそこまでどうでもいいことを細かく覚えているね。
K
26日にサークルの追い出しコンパがあって、一次会から二次会の会場に移動する時に集団から一度離れて自転車で池袋に購入しに行った記憶があるんですよ。で、確かその前日はやるべきものがなくて手持ち無沙汰だったなあということで。だから、24日には暇潰し編まで終えているはずなんです。
F
1月26日?目明し編って12月30日に発売されたんじゃないの?
K
一般の店舗に並んだのは1月26日なんですよ。今でこそコミケと店舗での発売は同時ですが、昔はそうじゃなかったんです。まあそのおかげで予約無しでも余裕で買えたわけですけど。
F
ふ~ん。で、やってみた感想は?
K
単に事件を解決していく話だと思っていたんで、展開に驚きましたね。あと、真犯人の動機付けから最後の結末まで納得がいくものだったんで、さらに評価が高まりました。ただ、新しい謎や未解決の部分も多々あり、メモをもとにそれらを自分で考えていたんですが、すぐに限界を感じて公式掲示板を見るようになりました。
F
公式掲示板にはかなりハマり込んでいたみたいだね。
K
そうですね。2月から4月頭くらいまではまさにドップリ浸かるという感じで。ひどい時は12時間くらいひぐらしやってましたからね。しかも8時間が掲示板で4時間は記事内容を確認するためのプレイという感じで倒錯しているというか。
F
そりゃまたスゴイ(笑)その原因は何だったの?謎が多かったから?
K
一つはそれもあります。何せどういう土台で推理…という表現には過敏に反応する人もいると思うので、「真相を解き明かす」とか言った方がいいですかね?
F
まあその反発も含めて重要だから推理って表現でいいんじゃない?
K
じゃあそのままで。ひぐらしって、お疲れ様会を見ればわかるように、単に推理するだけじゃなくて、どういう視点で推理するかということがかなり自覚的に問われていたので、まあ普通は考えなくてもいいことを色々考えるわけですよ。「どうやれば全てを人為で説明できるか」とかね。推理モノに詳しいわけじゃないですけど、普通の作品だったら何だかんだで人間がやったに決まってるわけだから、どうそれを暴くかって方向に集中できるじゃないですか。
F
それはちょっと疑問かな。今君が言うような「推理モノ」の経験から、あまり深く考えずに人為を選びとった人も多いんじゃない?綿流し編のスクラップ帳は明らかにそういう方向へ導くTIPSでもあるし。
K
そういう方向って何ですか?
F
つまり、「祟り」とされてきたものがいかに人為的に作られたものであるかを解体・解明する視点だね。それは自然科学的、近代的という意味でもプレイヤーに受け入れやすいものであったんじゃないかな?
K
そういう側面は確実にあるでしょうね。前に「神の解体から創造へ」という話をしたこともありますが、ひぐらしへの評価の高まりと皆殺し編で噴出した反発は、そういったひぐらしの描き方とプレイヤーの期待抜きには語り得ないものです。まあその話はおいおいするとして…もちろん人為の方向で推理していたプレイヤー全員が、祟りの可能性を十分に考慮した上で戦略的に人為を選びとっていた、とまで私は言うつもりはありません。とはいえ、ひぐらし自身が「人為VS祟り」という視点を提示している以上、他のプレイヤーに自説を提示する時に一応祟りの可能性を意識した上で人為で実現できる論拠を構築しないといけないという事情はあったんです。だから、反論に備えたり可能性を潰さなきゃいけない分、労力がかかります。自分が掲示板に入り浸っていた頃、多くの記事が「私は人為100%で推理しています」といった推理の枠組みの表明から始まっていたと言えば、多少は状況が理解してもらえるでしょうか。
F
なるほど。共通前提のない、つまり「ルールのないゲーム盤」だったから、どのような前提に自分が立っているかに自覚的になり、またそれを他人に説明する必要があったわけだ。ところで、今の感じだと君は人為派だったの?
K
いや、それは違いますね。う~んと何て説明したらいいかな。少なくとも、公式掲示板のような開かれた場できちんと推理、というか議論をしようと思うなら、そもそも祟り派の立場には立てないんですよ。ゆえに、人為派になるというか、人為で説明する方向へ行かざるをえなかったんですね。
F
どういうこと?
K
当時の祟り派、というかUFO説とかもあったので「為派」とでも言った方がいいと思うのですが、彼らの話って要するに「トンデモ説」なんですよ。まあ罪滅し編での使われた方を見ればわかりやすいんじゃないですかね。
F
まあ罪滅し編の話は置いておくとして…「トンデモ説」だから心ある人は祟り説を採用できない、ということ?
K
いや、もっと複雑な問題です。「為派」を採用した場合、端的に言ってそもそも推理が構築できないんですよ。「~の殺人はどうなってるんだ?」「祟り」、「突然…がおかしくなったけどなぜ?」「祟り」、「災害は?」「祟り」、「死人が消えるのは?」「祟り」という具合に話がそこで終わってしまうんです。この論法でいくと散見される誤字脱字も「祟り」で説明できると言えば、多少はその荒唐無稽さが理解してもらえますかね(笑)まあ冗談はさておき、「祟り」というものが「人為」と二項対立的に扱われている以上、「祟り」は人間の理解を超えた基準で動いている、少なくともそういう部分があると理解されるわけです。
F
でもそういう説明が本編やお疲れ様会でなされているわけではないよね。むしろ祟りの法則性みたいなものがさっき言った綿流し編のスクラップ帳などで提示されているわけで、祟り派にとっては伝家の宝刀みたいな「オヤシロさまの祟り」でさえ、ある一定の法則性を持ったものとして説明が要求されるんじゃないの?
K
その通りです。ただ、それは真相がわかっている今だから言えることで、「祟り」というものが人知を超えた部分を持つと見なされる以上、論者は容易に逃げることができるし、逆にどれだけ「祟り」の論理を構築しても、容易に梯子を外されてしまったりするわけです。
F
つまり砂上の楼閣にしかならない、と。
K
そういうことです。祟りという視点は、何でも説明はできるけど、一方で何も説明したことにはならないんです。もっとわかりやすく言えば、最終的に「何でもあり」にならざるをえない。なにせ私たちが知っている知識を使い人為で説明することさえ四苦八苦しているのに、祟りなどという埒外のものを準拠枠にしたら、それがどのような法則性を持っているのかを説得的に語ること自体がほとんど不可能ですから。「為派」の立場をとると、どうしてもそういう袋小路に入ってしまう。だから、仮に思考実験として「祟り」の可能性を考えてみることはあるにしても、きちんと情報を少しづつ追加・整理していって真相に到ろうと思うのなら「為派」にはならない、というかなるわけにはいかなかったんですよ。
(続く)
F
やあ、初めまして。今日はよろしく。
K
こちらこそ。
F
もうレコーダーは回ってるから後は普通に喋ってもらえばいいよ。
K
普通にって…録音されていると思うとなんか落ち着きませんね。
F
そう?じゃあこれでいいかな?
(何か被せたのか、以降音声が聞きとりにくくなる)
さて、じゃあまずはひぐらしとの出会いから話してもらえるかな?
K
2005年1月末に体験版をプレイしたのが最初ですね。おそらく1月21日だったと思いますが。
F
まあ細かいことはいいや。プレイしたきっかけは何なの?
K
当時メッセを結構やっていたんですけど、その中で友人の熊八から「サイド3のなく頃に」という画像をもらったんですね。で、このネタ画像の元を聞いてからサイトに飛んで体験版をDLしたんですけど、最初は単なるネタゲーだと思っていたのでギャップに驚きましたね。
F
まさに誤配ってやつだ(笑)
K
それで何だかよくわからないまま話を進めてたんですが、TIPSなど含めるとあまりに情報量が暗示的かつ膨大なので、確か5年目の惨劇の翌日くらいから気になったところは全部メモるようにしたんですよね。
F
なるほど、そういった点でもブログに影響を与えているわけだ。
K
まあそうですね。で、確かDLの翌日に体験版を終わらせ、続きが気になってそのまま夕方池袋の虎の穴に直行し、暇潰し編まで収録したものを買い、22~23日で綿流し、23~24日で祟殺し、24日で暇潰し編を終わらせたんだったと思います。
F
まあなんというか、よくそこまでどうでもいいことを細かく覚えているね。
K
26日にサークルの追い出しコンパがあって、一次会から二次会の会場に移動する時に集団から一度離れて自転車で池袋に購入しに行った記憶があるんですよ。で、確かその前日はやるべきものがなくて手持ち無沙汰だったなあということで。だから、24日には暇潰し編まで終えているはずなんです。
F
1月26日?目明し編って12月30日に発売されたんじゃないの?
K
一般の店舗に並んだのは1月26日なんですよ。今でこそコミケと店舗での発売は同時ですが、昔はそうじゃなかったんです。まあそのおかげで予約無しでも余裕で買えたわけですけど。
F
ふ~ん。で、やってみた感想は?
K
単に事件を解決していく話だと思っていたんで、展開に驚きましたね。あと、真犯人の動機付けから最後の結末まで納得がいくものだったんで、さらに評価が高まりました。ただ、新しい謎や未解決の部分も多々あり、メモをもとにそれらを自分で考えていたんですが、すぐに限界を感じて公式掲示板を見るようになりました。
F
公式掲示板にはかなりハマり込んでいたみたいだね。
K
そうですね。2月から4月頭くらいまではまさにドップリ浸かるという感じで。ひどい時は12時間くらいひぐらしやってましたからね。しかも8時間が掲示板で4時間は記事内容を確認するためのプレイという感じで倒錯しているというか。
F
そりゃまたスゴイ(笑)その原因は何だったの?謎が多かったから?
K
一つはそれもあります。何せどういう土台で推理…という表現には過敏に反応する人もいると思うので、「真相を解き明かす」とか言った方がいいですかね?
F
まあその反発も含めて重要だから推理って表現でいいんじゃない?
K
じゃあそのままで。ひぐらしって、お疲れ様会を見ればわかるように、単に推理するだけじゃなくて、どういう視点で推理するかということがかなり自覚的に問われていたので、まあ普通は考えなくてもいいことを色々考えるわけですよ。「どうやれば全てを人為で説明できるか」とかね。推理モノに詳しいわけじゃないですけど、普通の作品だったら何だかんだで人間がやったに決まってるわけだから、どうそれを暴くかって方向に集中できるじゃないですか。
F
それはちょっと疑問かな。今君が言うような「推理モノ」の経験から、あまり深く考えずに人為を選びとった人も多いんじゃない?綿流し編のスクラップ帳は明らかにそういう方向へ導くTIPSでもあるし。
K
そういう方向って何ですか?
F
つまり、「祟り」とされてきたものがいかに人為的に作られたものであるかを解体・解明する視点だね。それは自然科学的、近代的という意味でもプレイヤーに受け入れやすいものであったんじゃないかな?
K
そういう側面は確実にあるでしょうね。前に「神の解体から創造へ」という話をしたこともありますが、ひぐらしへの評価の高まりと皆殺し編で噴出した反発は、そういったひぐらしの描き方とプレイヤーの期待抜きには語り得ないものです。まあその話はおいおいするとして…もちろん人為の方向で推理していたプレイヤー全員が、祟りの可能性を十分に考慮した上で戦略的に人為を選びとっていた、とまで私は言うつもりはありません。とはいえ、ひぐらし自身が「人為VS祟り」という視点を提示している以上、他のプレイヤーに自説を提示する時に一応祟りの可能性を意識した上で人為で実現できる論拠を構築しないといけないという事情はあったんです。だから、反論に備えたり可能性を潰さなきゃいけない分、労力がかかります。自分が掲示板に入り浸っていた頃、多くの記事が「私は人為100%で推理しています」といった推理の枠組みの表明から始まっていたと言えば、多少は状況が理解してもらえるでしょうか。
F
なるほど。共通前提のない、つまり「ルールのないゲーム盤」だったから、どのような前提に自分が立っているかに自覚的になり、またそれを他人に説明する必要があったわけだ。ところで、今の感じだと君は人為派だったの?
K
いや、それは違いますね。う~んと何て説明したらいいかな。少なくとも、公式掲示板のような開かれた場できちんと推理、というか議論をしようと思うなら、そもそも祟り派の立場には立てないんですよ。ゆえに、人為派になるというか、人為で説明する方向へ行かざるをえなかったんですね。
F
どういうこと?
K
当時の祟り派、というかUFO説とかもあったので「為派」とでも言った方がいいと思うのですが、彼らの話って要するに「トンデモ説」なんですよ。まあ罪滅し編での使われた方を見ればわかりやすいんじゃないですかね。
F
まあ罪滅し編の話は置いておくとして…「トンデモ説」だから心ある人は祟り説を採用できない、ということ?
K
いや、もっと複雑な問題です。「為派」を採用した場合、端的に言ってそもそも推理が構築できないんですよ。「~の殺人はどうなってるんだ?」「祟り」、「突然…がおかしくなったけどなぜ?」「祟り」、「災害は?」「祟り」、「死人が消えるのは?」「祟り」という具合に話がそこで終わってしまうんです。この論法でいくと散見される誤字脱字も「祟り」で説明できると言えば、多少はその荒唐無稽さが理解してもらえますかね(笑)まあ冗談はさておき、「祟り」というものが「人為」と二項対立的に扱われている以上、「祟り」は人間の理解を超えた基準で動いている、少なくともそういう部分があると理解されるわけです。
F
でもそういう説明が本編やお疲れ様会でなされているわけではないよね。むしろ祟りの法則性みたいなものがさっき言った綿流し編のスクラップ帳などで提示されているわけで、祟り派にとっては伝家の宝刀みたいな「オヤシロさまの祟り」でさえ、ある一定の法則性を持ったものとして説明が要求されるんじゃないの?
K
その通りです。ただ、それは真相がわかっている今だから言えることで、「祟り」というものが人知を超えた部分を持つと見なされる以上、論者は容易に逃げることができるし、逆にどれだけ「祟り」の論理を構築しても、容易に梯子を外されてしまったりするわけです。
F
つまり砂上の楼閣にしかならない、と。
K
そういうことです。祟りという視点は、何でも説明はできるけど、一方で何も説明したことにはならないんです。もっとわかりやすく言えば、最終的に「何でもあり」にならざるをえない。なにせ私たちが知っている知識を使い人為で説明することさえ四苦八苦しているのに、祟りなどという埒外のものを準拠枠にしたら、それがどのような法則性を持っているのかを説得的に語ること自体がほとんど不可能ですから。「為派」の立場をとると、どうしてもそういう袋小路に入ってしまう。だから、仮に思考実験として「祟り」の可能性を考えてみることはあるにしても、きちんと情報を少しづつ追加・整理していって真相に到ろうと思うのなら「為派」にはならない、というかなるわけにはいかなかったんですよ。
(続く)
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