五島遠征記:五島歴史資料館へ

2023-09-03 16:44:36 | 離島旅行

 

 

最後の朝を迎えると、外は雨が降っていた。

 

思えば初日は天候不良で飛行機が遅れたものの、翌日からはずっと快晴が続いていた。それからするなら、目的も全て果たした状態で多少雨が降っている(飛行機は普通に飛ぶ)程度の状態なら、僥倖というものだ。

 

 

 

 

時折典型的なシャッター商店街の姿を撮影しつつ、歩みを進める。

 

 

 

 

五島歴史資料館へ到着。1階は観光ガイドの映像紹介、2階はキリスト教関連以外の歴史、3階はキリスト教関連+民俗学という構成になっている。ちなみにここからは館内ゆえ写真を撮っておらず、中身もほぼ覚えてないので、当時の携帯のメモをそのまま掲載するとこんな感じ(実際これだけしか残ってないw)。

 

五島資料館。三階。「解禁体制」w外圧がないと変われない国。教会の位置。まさに隠れ住んだ。潜伏するために集合的な要素が進んだ。神道の聖地。療養地。仏教徒との互恵的関係構築。開拓地。

へトマト。玉蹴りw

 

読み返して自分でも意味がわからんメモなのは相変わらずだが(ぉ)、おそらくこういう内容だろうと再構築すると、

 

1.
「解禁体制」(本文ママ)は江戸時代の部分的海禁政策(今までは「鎖国」と表現されてきたが近年このような評価に変化しつつある)のことを言っているのか、それとも五榜の掲示の邪宗門撤回のことを言っているのかどっちなんだろう?まあ「外圧がないと変われない国」って表現からすると後者だと思うが、おそらくこの物言いは、(GW段階ですでに話題になっていた)ジャニーズ問題マスメディアの報道のことも踏まえてのものと思われる。

ただ、明治政府がキリスト教を邪宗門として掲げた時、そこに神道を運営の柱にするという思想的・政治的な意図(水戸学や尊王攘夷)と、アロー戦争などを踏まえた「キリスト教が植民地化の尖兵になっている」という外交的理解&警戒心がどの程度混淆・配分されていたのか、という点は自分も不勉強なので色々調べてみたいと思うところではある(現在の自分の理解は、前者の要素がかなり強くて、中には思想より戦略を優先する政治家たちも一部いたが、キリスト教排除の方針にした方が良いというベクトルでは一致しているので、そこに乗っかった・・・というのが五榜の掲示なのではないかと思っていたりする。この辺新政府も全然一枚岩ではないので慎重な分析が必要だが)。

 

2.
教会の位置云々は、目立たないようにするために隠れキリシタンたちが療養所など辺鄙な場所(例:頭ヶ島天主堂)に住んだことを指しているが、その中で自分たちの信仰を疑われにくくするために神道の聖地(野崎島)などに住み、また現地の仏教徒や氏子たちと調和的に生きることで摘発・弾圧を回避することに尽力したことに言及したものだ。

これはもう少し掘り下げると、日本のキリスト教信仰について言及される際、しばしばその習合的要素=シンクレティズム(キリスト=大日的理解など)が指摘され、「日本人は本当にキリスト教を理解していたのか」と半ば揶揄的に述べられることにも関連する(このような見解への批判的論説は、『キリスト教と日本人』などを参照)。なるほど欧米人が想像するようなものとは違う特徴(例えば現代韓国のキリスト教にはシャーマニズム的要素が指摘されている)が見られることを実態として抽出・指摘するのは重要なことだが、一方で日本の潜伏キリシタンについて言えば、そこには政府の弾圧を免れるための既存の宗教との融和という生存戦略の側面があり、そういった事情を考慮せず、単に「欧米の文物を理解できない日本人」のように捉えるのは、脱亜入欧的オリエンタリズムに陥る危険性を秘めている、不毛な二項対立的思考の産物であるように思われる(そもそも論になるが、宗教改革の煽りで非ヨーロッパ世界への教勢拡大を目指したイエズス会は、現地の事情にあわせて教えをアレンジすることをしばしば行っており、清朝において生じた典礼問題はその好例と言える。そういった諸々の要素を無視して、「文明の対立」的な思考からスタートすることがいかに不毛か、という話である)。

これもついでに言っておくなら、このような発想は遠藤周作の『沈黙』その映画版にも見られ、(例えばルース・ベネディクトの『菊と刀』のように)一つのアスペクトとしてならともかく、話をそこからスタートするとおかしなことになる。例えば「日本人のキリスト教信仰が周囲に流されて棄教」というのは、山本七平の『空気の研究』やそれこそ今日のジャニーズ問題や大手マスメディアの沈黙にも絡めて、屹立した個人の不在=空気や勢いに流され、「もの言えば唇寒し~」の状況になって不合理な選択・状況が継続されるという問題に繋げやすそうだし、その要素が皆無と言うつもりはない。

しかしそれなら、もっと正確を期すべきで、江戸時代の切支丹信仰やその棄教については、「五人組」という連帯責任制の要素を考慮しない訳にはいかない。端的に言えば、それは自己の選択が身近な他者の死を招く状況なわけで、要するに「私が私の責任において禁止されたものをあえて選び、その罰は甘んじて受けるし、そのことでその選択を変えたりしない」などという、わかりやすい自己責任論で済む話では全くないのである。

またこういった行動様式を日本人の特徴として超歴史的に捉えることにも問題があって、例えば中世の村落については、今では考えられないような過激で過酷な自力救済の仕組みがあったことは『喧嘩両成敗の誕生』に関する記事でも指摘した通りで、そこには「空気を読む」とか「お上に政治を任せる」とか、よく指摘される日本人のメンタリティとは異なる意識で動いていたことが読みとれる(これを極端な言い方にすると、宮崎市定の「応仁の乱前後で日本は全く違ったものに変わってしまった」といった評価になるわけだ)。

つまり、江戸時代初期における切支丹たちの棄教とそのあり方を考えていく際には、五人組などを含めたムラ共同体の成立の契機として、中世との断絶や近現代との連続性の文脈、つまり変化の過渡期の一幕として捉える方がよほど適切ではないかと思う次第である(これはしばしば私が指摘する、「日本人=大半が無宗教と自己認識」という状態を超歴史的な特徴とみなすことの問題ともつながる)。

 

3.
へトマト。玉蹴り→多分これは響きが面白いからメモっただけやねw

 

とまあそんな感じだろう(これをいちいち書くと長くなってメンドクサイから、ある程度記憶を喚起しやすいキーワードだけ並べたんだと思われる)。

 

あ、ちなみに伊能忠敬の測量エピソードとか結構おもろかったです(ちなみに伊能忠敬の測量事業については、この動画などを参照)。

 

 

 

 

とまあそんな感じで意外と早く見終わりましたよと。

 

この段階で空港へバスで行くか徒歩で行くか迷っていたが、バスで行くのは早く着きすぎるし、もう少し街並みも見たいわ~ということでアルキニストに決定(・∀・)

 

 

 

 

最後に商店街の入口を撮影。

 

 

 

 

ついでに堀のシロサギと鯉が目に入ったのでこれも撮り、空港への道を歩み始めた。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大手メディアとセクショナリズム | トップ | 案件動画というものを見て »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

離島旅行」カテゴリの最新記事