『キリスト教と日本人』を読む 補遺:「正しい~教」・「正しい信仰」というバイアス

2020-05-21 11:55:00 | 宗教分析

数日前に『キリスト教と日本人』を取り上げ、「日本(人)とキリスト教の関わりを歴史的な実態を通して紹介してくれるので、日本人がキリスト教に抱きがちな先入観や発想について相対化してくれる良書である」と書いた。本稿では、その際に書ききれなかった部分を補足しておきたい。

 

前掲書の第5章の「『キリスト教』ではなく『キリスト道』?」、および第六章「疑う者も、救われる」では、「正しいキリスト教とは何か?」という問題と、「信仰するとはどういうことか?」というテーマが扱われている。このように言うと、そこには最終的な答えが書いてあると期待する人もいるだろうが、そうではない。むしろ、いかにコンセンサスを得るような答えを出すのが難しいか、ということを簡潔だが説得的に書いているのである。

 

これらの点について、(私の知る限りでは)少なくとも日本人の多くが極めてナイーブな理解しかしていないと言える。その根拠は、例えば前者の問いについて、「日本人はキリスト教を(正しく)理解できないものである」などと言われる割に、キリスト教というもの自体の歴史性(変化の歴史)や多様性については実に無頓着に語っているからである。しかし、前回の記事でも書いたが、原始キリスト教、アタナシウス派=三位一体=カトリック、ギリシア正教、イギリス国教会、カルヴァン派と様々な宗派が存在する上に、宗教戦争で殺し合ったりさえしているのだ。

 

また、カトリックは本書でも触れられているように、聖人崇敬・聖者崇拝という広くみられる現象(サンチャゴ・デ・コンポステラはその好例だが、比較的新しいものでも、19世紀のルルドの聖母などがある)が存在する。また、韓国に伝わったキリスト教は、現地のシャーマニズム的要素と混淆したものになっているという点もすでに述べた通りである。

 

つまり、キリスト教の中の差異、カトリックの中の「多神教」的要素、そしてヨーロッパから海外(まあそもそもキリスト教のそもそもの起源からすると欧州も海外だが)に伝わったキリスト教の土着信仰との混淆による変容、といった現実を考慮する時、イエズス会が日本に伝えたキリスト教(=カトリック)に日本の土着の信仰が混入し、例えばマリア観音などが信仰されたことをもって、即ち日本はキリスト教を理解できなかったなどと断じることができるのか、という疑問が当然生じてくるであろう。無批判にそう考えてしまうことを、私は「欧米を理解できない日本(人)という固定観念」=脱亜入欧的オリエンタリズムとして繰り返し批判しているわけだが、要するにそういったバイアスを相対化する契機を提供してくれるわけである(ついでに言っておくと、「偽史」の取り扱い方法でも触れたように、そういったバイアスは現実に根差さないがゆえに無価値とみなすのは早計で、それが何に由来しどう共有されているのかと分析した方が有益である)。

 

また、後者の「信仰するとはどういうことか?」という問いにも同じことが言える。本書では、「信仰」を信じて疑わないこと、つまり「妄信」と同一視するのは、あまりに一面しか見ていない考え方であると論じているのだが、全くその通りであろう(まあ日本の場合は、そう思い込んでいるというより、ぼんやりとそんなイメージを持っている、というのが実態ではないかという気がするが)。

 

例えばアメリカには、聖書に書いてあることがそのまま正しいと信じている人が人口の30%いると言われている(いわゆる「キリスト教原理主義」と関係する。なお、そういった人々が科学的に実証された聖書と反する事柄をどう認識しているのかという話は、少々長くなるので今回は触れない)。つまり、「人間はサルから進化(突然変異)したのではなく、神が作った」というような発想をする人がアメリカ合衆国には9000万人ほどいるという話になるわけだが、逆に言えばその他のキリスト教徒は進化論などを受け入れたりしているわけである。ヨーロッパなどと比べて信仰心が篤い(誤解を恐れずに言えば「ナイーブ」)と言われるアメリカでもこのような状況なのだから、欧州については推して知るべしであろう。

 

またイスラームについても、同じトルコで女性によって全く服装が違うとか(チャドル・ヘジャブ・Tシャツ&Gパンと色々)、酒を昼からガバガバ飲んでいる人もいる、というのはすでに書いた通りである(ただしこれはクルアーンの解釈の仕方で違うという側面もあるので、信仰心という観点で一概に評価できるわけではない)。

 

以上要するに、宗教の「信仰」を「妄信」と短絡させるのは宗教に対する無知であって、もっと言えば(日本人が)特定宗教や宗派にコミットしていないがゆえの、「異質な他者へのレッテル貼り」という側面が強いのではないかと思われる(ただ、これは日本に限った話ではない。実際、欧米でも9.11以降「ムスリム=テロリスト予備軍」みたいなレッテル貼りがなされたりしている)。

 

そういったバイアスが蔓延している状況を踏まえれば、本書の「信仰の中には疑うという行為さえ含まれている」という話と、それにまつわるティリッヒやマザー=テレサの例は非常に示唆に富んでいるわけだが、このようなテーマは非常に古くて新しい問題でもある(ちなみにティリッヒの言う「宗教的題材を用いた芸術作品が必ずしも宗教的ではなく、宗教的題材を用いてなくても極めて宗教的な芸術作品もある」という趣旨の指摘は、宗教団体に属しながら己の現世利益しか追求しない人間と、宗教団体に属さず宗教という形ではないが、利他的・超越的・包摂的な活動を通じて多くの人を救うという宗教的行為を行う人間もいる、という風に読み替えた方がわかりやすいかもしれない)。

 

例えばこのブログでは「ヨブ記」を取り上げたことがあるが、もし仮に「唯一絶対の神との契約を妄信することであり、そうでなければ救済は訪れない」といった発想が当然のこととして受け取られていたなら、神を信じ善行を行う者が散々な目に度々遭い、神に疑義を呈する者が最終的には救済される、などという筋立ての話が(旧約)聖書に取り入れられることはなかったであろう。

 

これは古い時代の話であるが、20世紀についても同じことが言える。例えば、聖書の権威・客観的正しさにすら疑義を提示する新正統主義(危機神学)が登場したし、貧困などを解消するために政治にコミットするだけでなく、同性愛のような性的マイノリティなども包摂しようとする解放の神学(聖書の記述からすれば、信仰=妄信であれば同性愛=忌むべき者となるはずだ)も現れた。また、このブログでは1960年代に書かれた「白鳥の死」(『楢山節考』所収)を取り上げたこともあるが、ここでも神を信じるという行為に疑いを持ちながら生き、最後には信仰の中で死んだ正宗白鳥のことが書かれ、やはり「信仰の中には懐疑や躊躇も含まれる」という話になっているのである。

 

要するに、信徒として生きる上でも疑うという行為が含まれているのはむしろ当然であって、それに意外の感を持つのは、繰り返すが宗教や信仰というものへの無知に他ならない(ただし、宗教以外のファシズムや陰謀論を含め、疑いを一切挟まず妄信する人間も存在はしている)。

 

ではなぜ、そういう誤った認識をしてしまうのだろうか?その理由はおそらく、日常的に多様な信仰を持つ人がいない、もしくはそういった人々とコミュニケーションをする機会がないので、宗教や宗派による違いや同じ宗教でもその強度に様々なグラデーションがあることが、肌感覚としてそもそもわからないからだろう(まあ日本では、「自分と全く違う文脈で生きている他者に自分の考え方をプレゼンテーションする」という機会が極めて少ないという事情があるので、宗教に限った話でもないとは思うが)。

 

以上の現実を踏まえれば、本書で書かれている「正しいキリスト教とは何か?」であったり、「信仰するとはどういうことか?」という問いは、多くの日本人の無意識の前提を客体化・相対化してくれるだろう。またそれにより、真理だと思っていたことが、実は歪んだ鏡像に過ぎなかったということを自覚するまたとないきっかけになると思うのである(前にも書いたことがあるが、日本人の無宗教やその歴史的背景について考察することは、それらについて論じられてきた諸々の言説を相対化し、「日本人による日本人論」の一環として消化・アーカイブ化することにも役立つ)。

 

なお、私が日本人の無宗教について考察する際に、「コギトエルゴスム」を書いて「日本人は無宗教であるか否か」という問い立ては誤りであると述べた理由もここに由来する。つまり、「正しい~教」だの「正しい信仰」などと言っても、コンセンサスが得られるような最終解は、端的に言って出ない。ゆえにそれらを探求・決定したところで、「日本人の大半が無宗教と自己認識する背景」ではなく、「私の宗教論」にしかならないのである。

 

ゆえに私は、あくまで「無宗教という自己認識」、つまりは宗教的帰属意識のあり方にこそ注目すべきだと繰り返し強調しているのだと述べつつ、この稿を終えることとしたい。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ダンジョン飯9巻購入につき:隊長はやっぱりエロス... | トップ | 大空スバルに敗北を喫しました »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

宗教分析」カテゴリの最新記事