忍耐と自己責任論の淵源:リスクヘッジマインドと社会的無関心

2019-11-10 11:35:49 | 生活

 

二回にわたって貧困と自己責任論の話を書いてきたが、今回は予告の通り白井聡の参院選分析を取り上げてみよう。途中で意図的に「階級闘争」などという言葉を使って「世の中はもうそういう状態まできている」といったことをアピールしたいのはわかるが、まあ聞き手によってはそういう言葉だけでそれ以後の話をシャットアウトしてしまうだろうから、話し方というか伝え方の戦略として全面的に賛成するわけではない(まあアメリカの「1%VS99%」とか、ピケティの出した結論からすれば、こういった見解は当然のように惹起するとは思うのだが。なーんて、自己責任論者を「愚者」と切って捨ててる俺が言う事じゃないか(゚∀゚)アヒャ)。

 

とはいえ、私がこの動画で非常に参考になったと感じたのは若年層のマインドである。社会の仕組みを知ろうとしないだけでなくそれを正当化さえもし、批判的な意見については上から目線とかみつく。なるほどおそらくそういう人たちの中では「意識高い系」などとでもみなされているのだろう。ここで非常に興味深いのは、「我慢していれば最悪の状況にはならないで済む」とでもいうべき根拠のない思い込みである。もう少し詳しく言えば、「色々なリスクが社会にあることは何となくわかるけど、それは自分がその気になれば避けられるし、それゆえにイヤなことがあっても我慢していれば何とかなる。」というところだろうか。

 

このような見立てが正しいとすれば、そのマインドはまさしく、自己責任論の大合唱と「私も我慢してるのに何でお前だけ・・・」という負の斥力の背景を構成するものであろう。しつこいが繰り返すとこういうことだ。システムという大きなものはよくわからない。また将来はどんどん厳しくなっていくと言われている。だからシステムはどうなっているかとかを考えても意味ないし、ましてそれを変えようなんて「大それたこそ」は考えずに、システムに最適化(=自助努力)してしがみつき、そこで多少のことは我慢して生きていれば最悪の状況にはならない、と。だから、現在の社会構造についてデータを調べたり複雑性に目を向けたりはしないにもかかわらず、自助努力で何とかなるという根拠なき思い込みと、我慢して不安の中で生きているんだという理由から、貧困問題などについて出てくる反応が自己責任論と負の斥力というわけである(ちなみに、我慢して不安の中で生きているからこそ、その前提が突き崩される社会システムへの眼差しが外部から要求されると、妥当性以前に感情的反発として否認に走るものと予測される)。

 

もちろん、これで若年層が全て説明できるなどということはないだろう。たとえば『貧困を救えない国 日本』で言及されるソフトヤンキー層の場合、リスクヘッジとしての相互扶助が機能しているようだが、一方でコミュニティ外の人間に対する排除的マインドを背景として、やはり自己責任論が支配的になるという構造と予測される(地方の厳しい雇用状況などを踏まえリスク分散をするという自助努力の組み合わせ=助け合い=相互扶助で生活を成り立たせており、つまりここにも厳しい状況を前提にした忍耐と自助努力を必死に行っているというマインドがあるわけだ)。

 

また若年層以外はどうかと言うと、次のように考えることはできる。すなわち、30代後半~40代は「失われた世代」として苦境が外的に与えられたという感覚を持っているが、その中をやはり忍耐と自助努力でサバイブしてきたという感覚も強い。だからやはり、自己責任論と負の斥力が働きやすい。ではその上の世代はどうか?彼・彼女らは高度経済成長期やバブル世代であるため、右肩上がりを経験しているし、またその頃の労働環境などは今よりも過酷であった(終身雇用や企業への帰属意識云々もあり、今のブラック企業的なやり口と単純に比較することは難しい。とはいえ、労働時間などは明らかに今より厳しい傾向があったと言える)。以上要するに、我慢して頑張っていれば何とか状況は良くなっていくのに、なんで我慢しないの?頑張らないの?というマインドになるわけである(なお、意外に思われるかもしれないが、私がこの話を書いているのは日本人の無宗教の問題とも関わっていると考えているからである)。このようにして、(世代や背景は違えど)日本という国は実力主義のアメリカよりも遥かに、政府に頼らず自助努力をせよと考える世論が形成されているのではないだろうか?

 

話を戻そう。とはいえ、白井聡が若者の行動様式について述べているので重要なのは、それが選挙のような社会的レベルでどのように立ち現れ、それがどのように社会へ影響を与えているかということであった。その背景について言うならば、そもそも 日本は高等教育でさえも、「兵隊」になる人間をいかに養成するかを目的としていることが挙げられる。端的に言えば、「システムについて考える人間」・「システムを作ろうとする人間」よりも、「システムに最適化することを金科玉条とする人間」を量産する場となっているのである。

 

なるほど近代化の途上にありフォード式のような大量生産が一般的だった時代には、そこにも合理性はあった。しかし、ポストフォードの時代と言われて久しい今、イノベーションこそが重要であるがゆえにその合理性は大きく損なわれており、むしろシステムそのものを考えない(考えさせない)兵隊を大量生産する仕組みの問題が噴出していると言えよう。

 

これは何も「教育機関だけ」のことではない。親の教育についてもそうである。ニュースにもなるのでご存知の方も多いだろうが、昨今では親があらゆる場所に付き添い、代行をするようにさえなっている。そして親の希望する就職先第一位は公務員(国家公務員・地方公務員合わせれば20%に及び、3位トヨタの2.9%の7倍に及ぶ!)であり、大学一年生/二年生の希望就職先は1位の地方公務員、2位の国家公務員合わせて37%(3位Googleの9.3%の4倍)にもなる。このことから見ても、リスクヘッジに走らせようとする親と、それに追随する(と書くとさすがに失礼な気もするが)子どもという構造が見て取れる(なお、賢明な読者諸兄はすでにお気づきのことと思うが、公的扶助が脆弱で自助努力の重要性が大きい社会において、言い換えればひとたび「ドロップアウト」すると復帰が困難なシステム内において、このような行動は合理的なものであり、それをただ批判しても全く無意味である。そうして「合成の誤謬」の中でどんどん苦境に追い込まれていく環境こそが「茹でガエル」と呼ばれており、またゆえにこそ余力がある優秀な層はそもそも日本というシステムを見限って海外に行くようになっているわけだ)。

 

以上を踏まえると、今の日本は将来の人口減少でパイが縮小するのが明らかなわけだが、そのパイにいかにしがみつくかを公的・私的に教え込んでいるのが日本という国の現状と言えるわけだ。その結末として、「社会のことなんて気にせずに、我慢して頑張ればまあ最悪何とかなるんじゃね?」という思考を持つ若者が多くなってきているというのは、むしろ至極当然の帰結であって、今さら何をか驚かんやという話である(どっかの漫画じゃないが、「コーラを飲めばゲップが出る」くらいのわかりやすいさである。ちなみに、それだから宮台真司は「(そのようなマインドを埋め込み子どもをスポイルする)バカ親をまず何とかしろ」とずっと前から言ってきたわけだ)。

 

以上のような背景を踏まえずに、ただ若者の投票行動&言説という現象だけを批判しても意味はないと思う次第である。もちろん、白井の発表の目的は参院選からどう世論を見るかであるし、そもそも20代も後半になって、性的虐待や家庭内暴力のような毒親的振る舞いへの告発ならともかく、親が教えてくれなかったのが悪いなどいつでも情報にアクセスできる状況を棚に上げて他者を批判する態度が通用するのか、という反論がくればそれもまたその通りであろうと思う。しかしながら、出口の部分より先にそもそも過程を変えなければならないという視点を持たない限り、社会的無関心は拡大再生産されるだけしかないと考える次第である。

 

ちなみに私は、この動画で問題視されているような若年層の思考様式も含め、「AIが救世主にならないとわかっても、人間への期待値が下がれば結局は同じこと」と書いているのであり、おそらく将来は「AIがもたらすサーカス」と、「BIがもたらすパン」で多くの人は生かされるようになる可能性がやはり高いと繰り返しつつ、この稿を終えたい。


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