三連休の終わりで「寧波の乱」に言及するのは間違っているだろうか?

2022-09-25 11:15:23 | 歴史系

 

 

三連休のはずなのに、大雨の攻勢激しい状況ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?さて、今回は連休の最後ということで(?)、「寧波の乱」について取り上げたいと思いマス(少し前に「最大版図の罠」という記事で大寧寺の変にも触れたことだしね。大内氏と「寧」とつながりですわ😀)。

 

まあ動画でガッツリ説明されているので、興味ある方はそちらをどうぞなんだが、長時間に渡るので手短に言うと、現在の山口県を本拠とする大大名の大内氏が遣明船における国内の主導権争いを国外=明に持ち込み、貿易で寄港していた寧波(ニンポー)で細川氏側を殺すわ明側の役人も殺すわという世紀末ムーブをやっちまった事件である。

 

 

わかりにくければ、「横浜港にやってきているとある国の貿易船が突如仲間割れで殺し合いを始め、仲裁に入ろうとした日本人をヌッ殺すわ拉致するわした」と聞けば、その所業がどれだけ亜空間でクレイジーなものだったかは容易に理解できることと思う😅

 

とまあある意味ネタとしてもインパクトのある事件なんだが、単におもしろがるのでは勿体ないので、その背景というか、中世人の世界観とかを考えるきっかけとするのにこれほど良いきっかけもないんではなかろうか?と思う。

 

例えば寧波の乱とその周辺からは日明貿易のカオスな一面を垣間見ることができるわけだが、ここには朝貢貿易や冊封体制というものがその言葉がイメージする上下関係に反して、実態はかなり多様であったことも関係している。例えば実利という面に注目するなら、明の三代目永楽帝の際に鄭和が南海遠征を行ったことは有名だが、その時に朝貢した国の一つマラッカは別に明の威光に平伏したというのではなく、北のアユタヤ朝(現在のタイ)に対抗するためにその威を借りた、という側面がある。

 

ゆえに例えば、足利義満が「日本国王」なる称号を用いて明との貿易を始めたことを陰謀論的に捉えたり、ましてや中華に媚びを売る屈辱的外交だなどと憤るような向きは、単に当時の世界常識をよく知らずに、後世の小中華思想やらに振り回された見解と言えるだろう(『なぜ、足利将軍家は中華皇帝に「朝貢」したのか』などを参照)。

 

またあるいは、大内氏の(今から見ると)世紀末ムーブが一体どこからきたのかについては、前に述べた『喧嘩両成敗の誕生』で描かれる、とにかく体面を重視する人々(笑われたという理由で子供を斬り殺す!?)、あるいはそういう世界を自力救済で生き延びよという世界観(もちろん、鎌倉時代に問注所という司法機関があったように、争いを政府=上位権力によって裁定してもらうという発想・機能はきちんと存在していたのだ)が背景にあると知ると、納得するかはともかく、理解はしやすくなるだろう(ホイジンガ先生風に言えば、これが中世の「遊び」・コスモロジーの構造や、という話。ちなみにウクライナ侵攻についたネオ・ユーラシア主義のことを言及したのもその背景を理解するためである)。

 

16世紀の日本が行った貿易と言うと、どうしても(時代劇の影響もあって)16世紀後半の南蛮貿易がフォーカスされがちであるが、同時に朝貢貿易の方も見ていくことで、より立体的にその時代が理解できるようになると述べつつ、この稿を終えたい。


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