突厥碑文を歌ってみた(・∀・)

2024-04-09 16:51:06 | 歴史系

 

 

こないだルーン文字関連でヴァイキングや突厥の話をしたわけだが、「オルホン碑文の古代テュルク語をAI音声で歌う」というまさかの動画が登場したので掲載しておく。なぜ突厥文字が「突厥ルーン文字」とも言われるのかの参考になるだろう(余談だがこれを解読したトムゼンは北欧スウェーデンの学者である)。

 

そんなん需要があるのかって?知りませんな( 。∀ ゜)

 

ちなみに「トグズ」は中央アジアの西突厥絡みで「トグズオグズ」(九姓オグズ)ともよく出てくる。細かい点は謎な部分もあるが、まあおっきな部族の集合体として言及する時は「突厥」だの「ウイグル」だの「カルルク」だのと書き、その構成氏族まで細かく表現したい場合は「十三姓突厥」(唐に降った後は漢文史料の表記が変化する)とか「オンウイグル」(十姓回骨)、「ユチカルルク」(三姓葛邏禄)と書くのだろう。

 

ちなみにカルルクはタラス河畔の戦いで彼らの裏切りが唐の敗北に繋がったとの記録があり、またモンゴル高原でウイグルが覇権を失った後、高昌(トルファン)方面に移動し、西ウイグル王国を建てるが、この王国の主体がカルルクだったとか、あるいはその一部がカラ・ハン朝を建国したと言われている。ちなみに呼称としては、吐蕃=チベットの記録だとカルルクが「ガルログ」となっており、思わず仮面をつけて飛び回るキャラが思い出され、図書館で爆笑しそうになったとかならなかったとか。

 

 

 

 

ただよーわからんのは、突厥って中華王朝に下る前にも可汗を輩出する阿史那(ソグド語碑文からすると「アシナス」)氏、それをサポートする阿史徳氏(碑文もあるトニュクク=阿史徳元珍が有名)の存在は認知されていたわけで、なぜそれが後代になってわざわざ「十三姓」突厥と言うようになったのかは謎である(中華文化にある程度染まっていたことは漢文での墓碑銘などからもうかがえるが、そういう事情が自称・他称にどう影響するのか・・・はいまひとつ判然としない)。

 

あるいは、そもそもオルホン碑文の段階で数字+氏族名(さっきの以外ではオトゥズタタール=三十姓韃靼)とも書いており、遊牧部族側の呼称であった可能性が高いわけで、中華王朝の側はそれをそのまま記録しただけなのかもしれない。

 

ちなみに「テングリ」は言わば天=神という発想で、シャーマニズム・アニミズム的な汎神論的信仰の代表とされる。後に唐に降った際、唐の皇帝を「天可汗」=テングリカガンと表現もするようになるが、こうして自分たちは世俗の権力者=可汗、それを支配する宗教性も帯びたより上位の存在=天可汗という棲み分けには、中華王朝の支配を受けながら、いかに突厥の権力者たちが自己正当化を行おうとしたのかが見えて興味深い。

 

あと中華王朝に向けた突厥側の呼称で言うと、それを「タブガチ」と表記しているのがおもしろい。唐に関してTであるのはわかるとして、「ガチ」て何やねんという話だが、これは「拓跋」の事ではないかと言われていて、そうだとすると、唐までの王朝に関し、北魏を建てた鮮卑族からの連続性を意識していた可能性が高い。

 

これは唐は間違いなく鮮卑族(非漢民族)の王朝なんだ!Q.E.D.という話ではなくて(混血とかも含め所説あり)、要するに外側から見た場合に代表的な存在がその呼称として定着したと考えた方がよいだろう。すなわち、Chinese letterを「漢字」と呼んだり、十字軍の時代になってもヨーロッパを「フランク」と呼んだ(これはラシードの『集史』にも引き継がれている)のと同じである。

 

ただまあ流れとして見た場合に、漢化した北魏=浸透王朝がその現地化政策への反発から六鎮の乱がおきて東西に分裂し、そこから北斉・北周が起こって後者から隋=統一王朝が誕生し、短命の隋から楊氏と関連のある李淵が挙兵し唐を建国という流れからすると、そこに一種の連続性を見るのは不自然なことではないし、実際に均田制や租庸調制、府兵制といった仕組みは継承されてもいる。ゆえに、それらをまとめて「拓跋国家」などと歴史学で呼称もする訳なので、「タブガチ」という呼び方にはそれなりの必然性があった、と見ることはできるだろう。

 

なんてことを思い出した歌ってみた動画でした(・∀・)


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