BL的想像力の可能性と危険性

2016-02-13 12:22:53 | 感想など

 

今年のセンター国語では「キャラ的人間関係」に関する文章が出たそうだが、ある意味それくらい今日的な現象として広く認識され始めているということなのだろう。

 

そんなことを思いながら聞いたのが、サンキュータツオと春日太一による『俺たちのBL論』の話。実は筆者はこの本を未読であり、春日太一と言えば『時代劇はなぜ滅びるのか』といった時代劇の評論とその素敵なハスキーボイス(笑)しか認識していなかったが、この放送を聞いて大変興味がわいたので今度本を購入して読んでみようと思う(たとえば、BL的コンテンツの消費とセクシャリティがイコールではないという指摘は非常に納得できる点であった)。

 

放送を聞いて思ったこととしては、BL的あるいはより広くカップリング的想像力は、やはりキャラ化の産物であるということ。ただし、そこに関係性の眼差しが入っている点には注意を要するということだ(何かを擬人化の上で愛玩動物的なもの=萌えキャラとして、あるいは性的なるものとしてただ消費するだけではない)。またこの放送の中では(話が大きくなるからだろうけど)触れられていないが、対象の関係性について妄想しているうちは無害であるし世界の見え方も広がるが(実際、BL的視点で見直す方が「太陽がいっぱい」などの意味内容はより適切に理解されるだろう)、それをそうあるべきものとして他者に期待・押し付け始めた瞬間に、それはキャラ的人間関係あるいは(過剰になると)「友だち地獄」的な状況が惹起される。

 

要するに、放送中で言うところの「BLメガネ」が、着脱可能なものであれば世界の見え方を変える機能を持つし、逆にそれが理解不可能な他者とのリスクを削減するための半強制的なくびきとなるのであれば、お互いに首を絞め合う原因にしかならない。そしてそれを決めるのは、そのような見方についての(人によっても違うし・・・ぐらいの)距離感なんだろう。

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