沙耶の唄:エンディングの「失敗」補遺

2011-07-06 18:07:01 | 沙耶の唄

「沙耶の唄」において、あくまで「沙耶=異物」として見せる狙いを貫徹したいのなら、視覚的な演出に対して敏感になるべきであったこと、そして郁紀が元の世界を取り戻したいと望み実際にそうなった状況においては、沙耶を拒絶させるべきであったと述べた(ただ、繰り返し書いているように、その場合「沙耶の唄」は境界線を脅かすことのない安全で凡庸な作品に止まっていただろう)。

でまあ今回はちょっと毛色の違うお話。前述のように、一連の記事は演出技法や受容分析に焦点を当てているが、今回はリアリズム(行動の必然性)の側面からの批判となっている。まあ前者のアプローチを対照的に浮かび上がらせる効果になれば、というのが当初の意図だったが、果たして狙いは果たせたのかどうか。ちなみに、リアリズム視点からの批判を枕として、整形や相貌の問題、マトリックス的世界の幸-不幸について近いうちに書いていこうと考えている。

 

<原文>
前回の「続エンディングの『失敗』」において、以下のように述べた。すなわち、沙耶と人間の側の断絶を描きたいのなら、郁紀が元の生活を取り戻したいと言って両者の視点が交錯する場面こそ絶好の機会である。しかしそれにもかかわらず、実際に描かれるのは知覚を取り戻してもなお沙耶を拒絶するどころか愛し続ける郁紀の姿であり、これでは両者の交換可能性(境界線の曖昧さ)は印象付けられても、沙耶=異物と認識させたり彼女と人間の断絶を意識させたりすることは困難である、と。


そこでは、作者の意図した印象をプレイヤーに持たせる際に現行のエンディング(「エンド1」と表記)は逆効果だと批判したわけだが、今回は違った視点でエンド1の問題点を論じていきたい。


端的に言うと、それは郁紀が精神病院に入れるまでの経緯に関する疑問である。まず二つの重要な前提を押さえておくと、彼は

(1)元の世界を「取り戻す」ことを選んだ
(2)論理的な思考能力を失っていない

その上で知覚を取り戻した状況での発言を考えてみると、彼はまず鈴見の家宅侵入とそれに対する正当防衛を訴えるのではないか?もちろん、虹色の部屋であるとか最近の郁紀の様子に対する証言は彼をかなり不利な立場に置くだろうし、仮に家宅侵入の話を信じるにしても(本編を見る限り)鈴見が凶器を持ち込んでいる様子はないから、過剰防衛と見なされるのではないか考えられる(もっとも、私は法律に詳しくないので印象論だが)。


しかしそれでも、彼を鈴見一家惨殺の犯人とするのは明らかに無理のある展開だ。なぜなら、鈴見が妻子を殺した際に素手で凶器を用いているとともに、返り血も浴びているからだ(つまり、凶器には鈴見の指紋しかついておらず、一方郁紀には妻子の返り血すらついていない)。とするなら、二人を殺した犯人が郁紀であるという見解は万が一にも成立しない。しかも、以上のような証拠から妻子を殺したのが鈴見だとわかれば、彼が血まみれの状態で家に入ってきたと考えられるわけで、そうなると正当防衛という主張の正当性がいや増すこととなる(この場合、郁紀のナーバスな状態はかえって好都合かもしれない)。


詳しいところまではわからないが、少なくとも以上のような状況では三人の惨殺が疑われることはありえず、仮に過剰防衛と見なされても情状酌量がついて実刑なし、とかそんな感じではないだろうか(もちろん青海の問題は残るが、こっちも彼は「知らない」のではてさて…)。


ちなみに、郁紀が妻子の殺害に関わっているとするとこうなる。

郁紀が鈴見に殺人教唆ないしは(目の前で?)脅迫して殺させる。その後自分の家に移動して仲間割れだか何だかで鈴見本人を郁紀が殺害…

まあ見ればわかる通り正気を疑うようなアクロバティックな説だ。特に脅迫の場合は郁紀が鈴見家に入る様子を目撃した者がいるわけでもないのだから、暴論以外の何物でもない(力づくで脅したと考えない限り、脅迫の可能性を疑うには証拠がなさすぎる)。ましてや、鈴見に妻子の返り血もつき、凶器もおそらく鈴見家にまだ存在していて彼の指紋のみが検出されるような状況なのだから、二人の殺害を郁紀の犯行と考えるなど、むしろ取り調べ官(そう推理する人間)が精神病院に入るべきところだろう(警察の行動原理に関する涼子の発言は一体どこにいってしまったのだろうか?)。


一度異常の側に行ってしまった人間がいくら「真実」を話しても信じてもらえない…そんな展開として、一見エンド1は問題なく受け入れられるように思える。しかし、今述べたように、その内容は到底成立しえないものである。ましてや、郁紀は(この時点になるとそこまで積極的ではないにせよ)元の世界を取り戻すことを選んだのであり、さらに終盤においてさえ論理的思考能力を失っていない姿を描いている(※)のだから、自らの正当性を認めさせるために安直に真実を語ることはせず、落とし所を探るような行動を取るのではないだろうか。であるならば、現行のエンド1の内容は郁紀の側からも警察の側からも全く必然性を欠いたものであると言わざるをえない。


とまあ論理的な側面からエンド1を批判したわけだが、もしかすると作者は郁紀がもう元に戻れないことを描ければ何でもよかったのかもしれない。しかし、仮にこの推測が正しかったとしても、その作者の意図もまた本編の描写と矛盾したものであり、批判の対象となるであろう。なぜなら、先にも触れた終盤のエピソードもそうだが、郁紀は徹底して人間のビジュアルへのこだわりを持ち続けているからだ(まあそれゆえにエンド1における真の姿を見ても気にしないって発言が白々しく聞こえるわけだが)。とするならば、元の知覚を取り戻した時、なるほど彼はそれが砂上の楼閣にすぎないとは考えるかもしれないが、それに馴染めないという状況は、少なくとも本編の記述を見る限り、想定しえないのである(郁紀の人間のビジュアルへのこだわりは、彼が「狂った」のではなく単に「基準がズレた」だけだという印象を与え、そのことによって話に深みを持たせているが、ここでは明らかに仇となっている)。もし彼を元に戻れなくしたいのであれば、グロテスクなものにグロテスクだと知りつつなお惹かれていく様を何度か描いておく必要があっただろう。


以上のことから、エンド1は失敗ではないにしても、あまりに稚拙だと言うことはできるだろう。



郁紀は耕司が人間を殺すことに土壇場で躊躇すると言い、その理由を沙耶に説明している。この場面は、彼が瑶を傷つけることを忌避している点でも非常に興味深い。彼は思考力が崩壊したのではなく、基準がズレただけなのである…そんな印象を与えるシーンである。


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