「十四松とはもはやジャンルである」という名言を残したのはコ・ロース教授(1945-2016)もとい一松であるが、ただの天然小僧と見せかけて実直な(ように見える)鑑識官を演じ、分身・小型化して兄弟の病気を治し、自己同一性(正確には固有名の問題)について考察するなど多岐にわたる(わたりすぎな)活躍からすれば、それも当然の定義であろう。
というのは我が愛息子(?)十四松の話だが、思えば「おそ松さん」というのは全体として似たようなことが言えるのではないか?たとえば「じょし松さん」や「実松さん」のように別作品と見れるものがある。あるいは「なごみ探偵」のようにいつもと同じビジュアルでありながら性格は異なる設定を持つもの(言い換えればメタっぽい話→「ひぐらしのなく頃に」の「駒」をイメージしてもいい)もある。そしていつもの松野家を舞台としながら、十四松が分身したり首だけになったり文字だけになったり一松が猫化したりする話もある。これらは明らかに私たちが思うところの「現実」ではない。しかしその一方で、一度見れば明らかなように、兄弟間の微妙な関係性(ある種のリアリズム)も描かれているのである。
おそ松さんのようなスラップスティック(ドタバタ)コメディであれば、今述べたように理由なくリアリティラインが大きく変化することは別に不思議ではない(それこそ筒井康隆の小説などが典型)。ではそのような特徴がもたらした効果はというと、話のバリエーションやおもしろさにつながっているのはもちろんのこと、それが視聴者のキャラクターに対する想像力を大いに刺激し、関係性に注目する(特に)女性層の人気や二次創作の量産へと繋がっているのではないかと考えられる。たとえば、何もおもしろいことがなかったと嘆くトト子の元に十四松パン&ティンカー一(もうこの時点で意味不明w)が表れ、彼女を夢のような場所に連れて行ってくれるという。そのオチは野球関連の場所に連行&ドミニカ放置プレイなのだが、ここでティンカー一がトト子を可愛くない子と言って嫉妬しているらしきシーンが印象的だ。一松と十四松は名前から「数字松」とも呼ばれコンビのように扱われることも少なくないが、実際に素振り練習や面接シーン、屋上の思索シーンなど様々な場面でバディのように登場する(世界が文字化した最後に、+のようになった根明の十四松と-のようになった根暗の一松が一緒になって終わるシーンは極めて象徴的である。てゆうか十四松の面接の失礼攻撃はテンパった時の一松と絡めているのか?)。ここから二人の仲がいいのは明白なのだが、それを前提にすると先に述べたティンカー一の嫉妬シーンはその一線を踏み越える想像力を提供する絶好の材料となるだろう(しかも妖精のビジュアルで言わせることでさほど生々しい感じを出さずにカップリング的想像力を刺激するのが心憎い。もちろん、別キャラの話としても見れるのだが、十四松パン&ティンカー一とも「野球好き」というのが共通している描写がある以上、通常見ている数字松の精神をある程度反映していると見れる、というか見たくなるのである)。
ことほどさように、おそ松さんは「自己責任アニメ」と自ら銘打って様々なジャンルのネタをパクったり取り入れながらドタバタ劇を展開していくのだが、そのような作品の性質上、同じキャラクターを根本にしながらも様々なキャラを演じさせたり(十四松で言えば鑑識・十四松パン・十四松太子・老境の博士・爆弾処理班・F6バージョンなど)、それをオマージュしたようなキャラ(十四子)を登場させることで、特に六つ子の持つ陰影や関係性の襞について視聴者が想像する余地を大いに残したことが、おそ松さん人気の一つの秘密なのではないか、と思う次第である。
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