ヌーディストビーチに修学旅行で!!

2016-12-10 12:27:19 | 不毛漫画

 

 

「ヌーディストビーチに行きたいかー!!」とかつてのウルトラクイズよろしく世の(特に男子)学生諸君に聞けば、おそらく大半が世紀末のような雄叫びを上げつつ賛同するに違いない。とはいえ、それが修学旅行で達成できるかと言えば、その困難さは山を抜き世を蓋うほど(意味不明)であって、もはやネタにしかならないレベルである。

 

しかし・・・だからこそ我らがグル、師走の翁はそこにチャレンジした。その結果できた作品が、「ヌーディストビーチに修学旅行で!!」である。題名の時点で眩暈を通り越して卒倒しそうなレベルの意味不明さだが、そのありえなさ(ズレ)を笑いとして処理さえできたら、あとは新世界のスタートである。そこには心身ともに「剥き出し」となった大量のうら若き男女がいる。どうしてスワップ的な何か起こらないことがあろうか、いやない。

 

ではここで、師走の翁が長年得意としてきた複数対複数によるバーリトゥードゥーが行われるかと言えば、そうはならない。というのも、副委員長が盛った処方した「タタナクナール」によって、委員長(主人公)以外はインポッシブル状態という謎仕様のため、むしろ委員長×他の女子学生という即席ハーレムが作り出されるからだ。ここでアストロン化した麻衣さんを収めるのがセルフバーニングではなく女子学生の役割というのも意味不明ながら、それで一人につき複数回スプラッシュしながらなお、萎えることなきアームストロング砲を持つ委員長は何物ぞ、と疑問を抱かずにはいられないだろう(まあそこに痺れたり憧れたりする御仁もいるだろうが)。

 

しかしよくよく考えてみるに、連載物を中心とする商業エロマンガも「薄い本」とも俗称される同人誌も、短い中身でセックスまで持ち込まねばならないのだから、みな不思議なほどゼツリンオーでこの世にはインポッシブルなど無きが如し振る舞いをしている。そこからすれば、むしろこのヌーディストビーチの設定は、そのありえないジャンル的特徴を浮き彫りにする意味でもおもしろいものだ。

 

また、ヌーディストビーチ&修学旅行だけに多くの女性キャラが裸の状態で常駐しているのだが、彼女らが委員長のコックをクックするために代わる代わる対戦していく様はまるで勝ち抜き戦のようでもあっておもしろい。しかしそれだけでなく、裸×裸→セックスから描写がスタートし、そこから通常の関係性が回想の形で構築されるのが興味深い。前回の記事で書いたように、エロマンガはいかにしてセックスに到る必然性を準備するかが極めて重要であり、それは描写の困難さの中から催眠や薬物使用が理由づけに導入されるほどである。そのプロットを作ることに作家たちは苦労するわけだ。しかしこのヌーディストビーチは逆を行っている。セックスがまさに始まらんとする場面(あるいはその最中)で味付け的に普段の学校での関係が描写されつつ(キャラがそれを思い出しつつ)対戦が行われるのである。これはたとえて言うなら、天下一武道会に際して修行の過程を描いたうえで本番を描くのと、いきなり本番を始めて戦いの中でそれまでの過程を匂わせたりするのの違いに似ている。戦いを描くという目的(結果)は自明なのだから、あとは描き方の問題というわけだ。

 

以上長々と述べてきたが、連載物のエロマンガで考えた場合、様々なキャラとのセックスをいかに最小の労力(プロット)で描けるかというのが合理的な視点であると言える。その意味で、師走の翁が書いた「ヌーディストビーチ」は、それを修学旅行という設定にすることで笑いとしつつ、多量の女性キャラをカタログ的に見せ(読者の期待度を上げ、興味があるキャラのセックスを見たいがために購入動機を創出する)、彼女らと主人公の関係性については多くの描写を使うことを省き各々の濃厚なセックスを描くという実に効率的な手法であると見ることができる。元々この作者は「シャイニング娘」や「ピスはめ」など様々なヒット作を生み出してきたが、この「ヌーディストビーチ」もまた、エロマンガ史に残る作品となるであろう。ジーク、ハイル!!

 

 

・・・あ、とりあえず個人的には日焼けギャルの麻里亜最高です。しかもアニメ版第二弾は、後半が麻里亜無双で原作をはるかに超える濃厚なセックスの前に数多くのスコッティ将軍が殉職し、バーミンガムの山々が禿げるほどの被害が出たとか出なかったとか。


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