
私たちは、「水俣病」というものが突発的に生じたかのようにともすれば考えがちである。しかしながらこの掲示を見れば、それが公害・環境汚染の長い歴史の中で生み出されてきたものであることがわかる。水俣病と同時代にイタイイタイ病や四日市ぜんそくが社会問題となったことは周知の通りだが、大正時代の話は足尾銅山鉱毒事件などを閲覧者に連想させることだろう。
繰り返しになるが、「公害を出す企業=絶対悪」・「公害の被害者=絶対善」的な発想は思考停止どころか問題解決を遅らせる障害にすらなりえる。たとえば、しばしば見られることだが、被害者側の問題点をあげつらうことで、あたかもその人たちの発言に全く根拠がないかのように(意識的か無意識的かはともかく)ミスリードしようとする報道がある。このような報道のあり方が根絶されることは決してないだろうが、ともあれそういった報道に容易に乗せられて被害者の方を攻撃し始めるのは、先の二項対立的図式に頭が支配されていることに問題の大半がある(訴えた被害者にその他の案件で瑕疵があることと訴えている内容の正当性は、本来ほとんど別の話である。なお、このような引きずられ方は、議論をする際に、論理構成ではなく発言者の好き嫌いに問題を焦点化してしまいがちな我々日本人のメンタリティとも大いに関係があるように思える)。
話を戻すが、原発問題であれ基地問題であれ、どちらかを単純に善・悪とするような二項対立でとらえても、ただの党派性に基づいた怒鳴り合いにしかならない(それにしても、東北から逃れてきた人々に対しての様々な迫害を見ると、ハンセン氏病患者の隔離、被爆者差別、そして水俣病患者といった公害病の人々への迫害の根底にあったメンタリティは、さして変わってないのだなと感じる。これはよく言われる「ケガレ」的な発想も関係しているのだろうが、ともあれそのノイズ耐性の低さは短絡的な「自己責任」称揚メンタリティと相まって、ノイズ排除の志向を作っているように思える)。表出目的の行為なら死ぬまでそうしていればいいが、解決したいのなら根本から変わるしかない・・・
って書くのは容易だが、今や全世界的に「われわれ」の範囲をどこに置くのかに基づいた排除の傾向が強まっており、かつfake newsはもちろんpost truth(alternative fact)という形で「見たいものしか見ない」という姿勢を強固に持つという点で乗り越えるのが極めて困難なほど党派性が強まってきているのも事実。平井銀二っつー白髪のおっさんが言っていたが、人を篭絡するには、「その人の理解してほしいように理解してやればいい」のであって、そこに真実やら論理性やらは必要ないどころかむしろ余計なノイズである。ロクに情報を調べないどころか見出しぐらいしか見ようとしない脳の使い方を知らぬ肉細工どもには反対者の「裏」を暴いたと思えるようなニュースを餌としてバラまいておけばよく、さらには不安を煽って乗り遅れないようにさせれば完璧である。ただし問題は、こういう連中を大量生産して操作していい気になっていると、いざ戦略的な振る舞いを国家や社会がせねばならなくなった時、短絡的なpublic diplomacyに抗えなくなってるってことだ。ゆりかごの中で都合のいい情報ばかり与えられていると、ガチの生き残り競争には勝てない・・・なーんてね、どうせ人工知能に支配されゆく俺たちには関係ねー話か(゚∀゚)アヒャ
DIE
という話はさておき。水俣病が特定される過程は、利権の問題も絡めて原発と放射能被害を連想させるという意味で今日にも通じる問題だということを私たちに理解させるが(チェルノブイリ法なども参照)、それが「地域の奇病」と最初みなされていたことは「ひぐらしのなく頃に」も連想させた。あれも「症候群」というのは一つの視点にすぎないということが製作者側がはっきりと述べている。それを推理の世界に持ち込んだ(混ぜ込んだ)という点においてユーザーからの怒りや批判は受けてしかるべきとは思うが、とはいえ精神医学などで様々な病名が「発明」されていく様を私たちは見てきたし、その評価の微妙さは「Don't blame me症候群」という言葉に端的に表れていると言える。その意味では、「ひぐらしのなく頃に」におけるそれは単なるガジェットではなく今日的な重要性を持ち合わせているとは評価できるのではないか(たとえば今日では依存症が精神力の問題ではないことが喧伝されるようになっているが、それは祭囃し編でも出てきた入江の父親の豹変と、その罪という問題提起に繋がる。ちなみにこの問題意識は、少し視点は違えどアニメ版EDにguitly・sins・forgivenessといった歌詞が出てくるのであって、この作品全体を貫くテーマの一つであると言えるだろう)。
あとは公害被害者たちの戦いの困難さも出てくるが、実際法は使い方一つだよな(これもひぐらしの皆殺し編で園崎家絡みで出てくるテーマであるが)。法は私たちの社会生活のために定められているものでは必ずしもないし、裁判所は別に人権の砦などではない(これに関して最近のjam the worldの放送が痴漢冤罪を扱っていておもしろかったが、そもそもここで述べられている現行犯逮捕や拘留の認識を一般的な人がどれくらいしているのか、あるいはしていないのだとしたら、そのことによってどのくらい社会的な損失が生まれているのか・・・普段国家について憂いている意識高い系の方々なら、考えてほしいものである)。そのような理想像を掲げ続けて実現を要求する形でプレッシャーを与え続けることは必要だが、それが前提と思っているととんでもない絶望を味わうことになる。
とか考えながらじっくり見ていたらもう時間なんで閉めるとのこと。うほう、じゃあちょっち急がねばね!
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