イミテーションゲーム4.5

2016-08-02 12:10:35 | AI

 

 

二週間ほど前から、「映画が描く人工知能と人間のこれからの関係」というテーマの動画に触発され、「イミテーションゲーム」の記事を書いてきた。それがときて5つ目を書こうかというところで今回の動画を見たわけだが、これまで見たマル劇トークオンデマンドの中でも、随一といっていいくらい様々な点で感銘を受ける内容であった(気分的に「もう近代は終わった」というのは簡単だが、それがどのような構造によるものかを、近代のトリアーデ=三位一体的構造が今日ではトリレンマになっている、という表現で端的に説明している点など)。というわけで、それについて思ったことを(つなげると膨大な分量になるので)箇条書きで書いていきたい。

 

・グローバル化の先

これが進んで国家(の境界)が消滅するのではないかという言説が一昔前見られたが、おそらく今ではそんな夢想を語る人はいないだろう。むしろ今、EU離脱・トランプ現象など含め、様々な地域で排外主義が前面に出てきている。その背景には、格差の広がりや移民・難民問題があるわけだが、それをグローバル化による発展途上国からの貧困・格差の逆輸入という表現で語っていたのが興味深かった。

 

・明治政府の施策と地域共同体の改変・解体

これを聞いていて、『地方創生の正体』において書かれた市町村が県の意向を内面化してぶら下がる構造を連想した(これが県と国家の関係にも応用できる)。この動画では中央政府からある程度自律的な、という意味での地方自治の土台がそもそも明治時代に解体されていたという話であるが、このような「断絶」を見ることの重要性が重要だと最近私はとみに思うようになっている。「日本人とは~だ」というような超歴史的な語りは、果たしてただの自己イメージの開陳以上の意味があるのか?たとえば、宗教についても安土・桃山までと江戸(初期)以降で大きな断絶があるのではないか。戦国時代にある種権力の外側にいた一向宗が押さえこまれ宗門人別改帳、檀家制度etc...という形でシステム化して権力に取り込まれる中で形式化・従属化が進んだ。それが明治以降にも大きく影響しているが、今日的なあり方が昔にそのまま適応できるわけではない。その変化の過程をよく分析することが、日本人の宗教的帰属意識の変化を考える上でも極めて重要なのではないか(丸山真男の「歴史の古層」的な視点は確かに重要だが)

 

・アリストテレスの指摘した「逆説」

国家のために家族を残して死ぬ、というのは「自然」などでは全くない。これはコミュニタリアンのマイケル=サンデルも指摘していた重要な問題(リンク張った著書と違うかもしれんが)。

 

・「近代」が到達点ではなく特殊な時代の一つにすぎなかった、ということ

人権思想が一つの擬制に過ぎないのと同じように、近代の枠組みも当然擬制にすぎない。ただし、その虚構がどのような機能を担っていたかという認識もないとただのナイーブな「突っ込み」にしかならないし、今日の「バックラッシュ」も理解できない。たとえばマイノリティ保護とか弱者救済、あるいは社会への包摂(inclusion)に関して、「なぜその人を助けねばならないのか?」あるいは「なぜこの人は助けねばならずあの人は助けなくてよいのか?」すなわち「我々」の範囲が問題になるわけで、今リベラル=ナショナリズムという視点が持ち出されているのは結局そこに理論的背景が必要(そうでなければ納得できない)だからだ。萱野稔人が『ナショナリズムは悪なのか』でも述べていたように、ナショナリズムは排除の側面が強調されてきたが(この背景には、もちろんナチスドイツの蛮行や二度にわたる大戦の反省があることを忘れてはならない)、包摂のバックボーンを提供してもきたのだ。そしてそこが見落とされると、今日の排外主義は単なるナイーブな反動としてしか理解されないだろう(単に感情的な選択なら、ある意味批判もしやすいのだがね・・・)。カール=シュミットの話も出てくるが、要は問題そのものは全く解消されておらず、それがむき出しになってきたのが現状。最近では「帰ってきたヒトラー」。社会不安と排除のリンケイジ。

 

・では人工知能は、この排除の傾向を強める方向に向かわせるのか?それとも今まで実体としては不可能だった「基礎共同体」を超える規模での民主主義・国家運営が可能になるのか?

「イミテーションゲーム3」で書いたしその6でも書こうと思っていることだが、そこには「正当性の調達」、 言い換えると(ナイーブな表現に聞こえるかもしれないが)納得の問題が立ちふさがると思われる。仮に人工知能がデータを用いた正しい選択をし、その事実までは人々が納得したとして、果たしてその結論にすべからく国民が従うかどうか。これは単純な話で、たとえば国家のレベルで考えた場合、ある地域は人が住まない状態にしてしまった方が合理的だ、という判断が下されたとする。ではその地域住民は(もちろん補助金的なものは出すとして)他の地域にみな引っ越すだろうか?納得しない人間がいる場合、それをどのようにして納得させるのか?あるいはたとえば地球を~年維持するためには先進国の生活水準を・・・まで下げる必要がある、という算出されたとして、ここまで自由に慣れてきた人たちがその判断に従うのか?と考えると極めて疑問である(ミルトン「失楽園」の件)。というか、仮にそれを納得するようになったら、もうマトリックスの世界は目の前じゃないの?という気がするのだが。

 

・動画における「クソ親」の話

頑張ってきた人たちの中には、「こんなはずじゃなかった」「どうしてこうなった」と思う人も多いだろう(老後破産下流老人etc...)。そこには経済構造・政治構造の転換による企業共同体の崩壊や終身雇用の崩壊なども確かにある(これは前述のグローバリゼーションのことともつながる)。しかし、ここで親の問題が触れられている点に注意を喚起したい。最近の映画で「葛城事件」という連続殺人事件を扱った映画において、まさにその病的な環境とそれがじわじわ人を壊していく過程が描かれている(そしてそれは団塊の世代である作中の父親に一つの大きな要因がある)。しかもそれは、始めから明らかに病んでいるのではなく、微妙な不協和音という様々なシグナルを微妙であるがゆえにことごとく見落としていった末路なのだ(そして一つ一つは微妙な不協和音であるがゆえに、視聴者はそれらがとても他人事とは思えないだろう)。なお、このような一見平穏な家族に病理が潜んでいるという構図は、50年代アメリカ家庭の病理を描いた「レボリューショナリーロード」やら「ブルーベルベット」などがあり、日本に関してもアメリカが我々の社会・家族・意識に入り込んだ様を描いた『抱擁家族』など枚挙に暇がない。

 

・ポケモンGOと下層もとい仮想現実

今ここを読み替える手段としての有効性。クソみたいな現実を彩あるものにする手段・・・か。私はポケモンGOをやっていないしこれからやる可能性も低いとは思うが、その精神性の根底はambiguousの記事で述べたことと同じだ。それは楽しんでいるという意味では快楽主義というか享楽的だが、そのようにしないと強度が獲得できないという意味ではオブセッシブである。

 

・ 人間の装いに関して

ナオミ=ウルフの誤算であるとか、いわゆる「男の娘」であるとか様々なことを思うが、戦略的な振る舞いとしての装いも、変身願望・自己表現手段としての装いも結局は仮想現実で可能ならそちらに移行するのではないだろうか?そして、化粧での「変身」に驚愕するナイーブな男たちが多数いる、すなわち世界がどのように虚構されているのかに無知すぎる人間が多数いる以上、真実よりAR(虚構)を選ぶのではないか(ただ、整形への嫌悪感や顔によるidentifyといったものがそこにどう絡むかは個人的に興味深い)。とはいえ、装う側としては、タトゥーやピアッシング的な身体性の復活というバックラッシュも起きるだろう(CG全盛の中ゆえにこそ「レヴェナント」が評価されるのと同じように)。ただ、そのような志向性は、今日の「~系」の棲み分けと同じように、一つの島宇宙としかならないのではないか?

 

松井孝典「スリランカの赤い雨」

「宇宙の中で文明は消えては生まれているのだから、なぜ文明の消滅を悲しむ必要があるのか?いやない」という話だが、全く同感である。「人間の存在に必然性などない」からだ。ちなみにこれは「なるたる」から引用した個人の存在の必然性の欠落にもつながる。これはシニシズムではなく、端的にそういうことなのだ。あるいはこれに「でも私たちは生きたい」と言う人もいるだろう。それは自由だ。しかし「生きたい」と思うことと、「生きる意味がある」ということは全く別の話である。これがわからないという人は、「人を殺したい」と思うことが「人を殺していい(許される)」ということと等式で結べない、とでも言えば理解できるのではないだろうか。

 

・関係を作るには内発性が必要

実はこれ、私には全くない。たとえばだが、誰かと空間を共有するより、情報や利便性を重視する。それは端的に言うと、映画館よりDVDであり、一人旅である。風俗とか含めlikeの閾値はめちゃめちゃ低いし、何だったら目の前で頑張っている子に今日も一日お疲れさまと肩を揉んであげたくなるくらいだが(何じゃそりゃw)、それと同時にその人を独占したいとか継続的な関係性を築きたいとは思わないし、別の言い方をすれば交換可能(≠無価値)だと思う。

なお、この動画の中で言われる「(ナンパ師はクソだ。なぜなら)ヤッた後が重要なんだろ!」というのはおっしゃる通りだと思う。何か言説が「エロゲー化」してるんじゃないだろうか?「付き合ったことがあるorない」。「結婚したことがあるorない」。「子供がいるorいない」。それがステータスか何かみたいに語られることへの違和感があるとともに、それがゴールのように語られることに違和感がある。そもそも結婚した後で三組に一組は離婚するし、子供が生まれたとしても、引きこもりにもなったりするわけである。

あと、結婚のメリットが言われるが、それが自分の子供を作る以外は代替可能なものにしか聞こえない。たとえば孤独死の恐怖は介護ロボットの進化で乗り越えられる、とかね。ちなみに今の状況が進んでいくと、育児もまたプラトンが『国家』で述べたような形態になる可能性もあるのではないか?個人で育てると負担にもなるし国や共同体として計算が立たない(たとえば虐待で死なれると労働力の減少といった社会的な損失という意味でも困る)。であれば、いっそ共同体というかシステムが育児を引き受けようと。その中では、「自分で育てたい」というのは趣味化する・・・いやでも待てよ、人工知能が発達して人間が働く必要がなくなったり、あるいはその時間が極めて短くなったりしたら、むしろそれが生きがいになるから逆の現象が起きるかも。つまり父も母も家にいる、みたいな。これについてはもう少し考えてみたいところだな。

 

という具合に、自分の頃まで書いてきた様々な記事(問題意識)を再検証・再構築するきっかけになったという意味でも極めて刺激的な対談であった。

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