目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

隅田川七福神コース 約5.5km

2018-02-04 15:42:54 | ウォーキング
初めて歩くコースで21名の参加がありました。


写真:堀切駅

写真:東武特急
中目黒に集合し、日比谷線で北千住。スカイツリーラインで浅草方面へ二つ目の駅が堀切です。地図で見ると隅田川と荒川に囲まれており、川の水面と家が建っているところがほぼ同じように見えるゼロメートル地帯です。





写真:多聞寺
ご本尊は不動明王で、その他に毘沙門天をお祀りしています。どちらも戦いの神として信仰されていますね。毘沙門天は四天王としてお祀りするときは「多聞天」という名に変わるのですが、お寺の名前はこちらに由来しているのでしょう。茅葺の山門を持つ落ち着いた感じのお寺なので、その由来をすみだ観光サイトから引用します。
 天徳年間には今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。狸(たぬき)にまつわる伝承もあることから、多聞寺を一名「たぬき寺」とも呼びました。
 多聞寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残です。特に山門は木造茅葺(かやぶき)切妻造四脚門の様式をとるもので、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、区内最古の建造物と考えられます。享保3年(1718)に焼失し、現在のものはその後に再建されたものです。
また、多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804~1818)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月は七福神巡りで賑わいます。
他にも狸塚や映画人の碑があります。

震災、戦災の被害あっていないことが落ち着いた雰囲気をとどめている所以ですね。展示されている浅草国際劇場の鉄骨も興味深いので説明書きを記します。
東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨
 1945(昭和20)年3月10日未明、アメリカ軍B29爆撃機330機による無差別絨毯爆撃を受け、下町一帯は“炎の夜”と化した。この東京大空襲による下町は壊滅状態に陥り、死者10万人、重傷者11万人、100万人が家を失った。(犠牲者の氏名、正確な人数は現在も不明)
 この元浅草国際劇場の鉄骨(1998年現在、大部分は江戸・東京博物館に展示中)は、東京大空襲を語り継ぐ、数少ない歴史的“証人”である。風船爆弾の工場となっていた浅草国際劇場も直撃団を受け、屋根を支えていた鉄骨は曲がり、ちぎれ、天井の大部分が抜け落ち、たくさんの人々が焼死した。目の前の痛ましくひきちぎられた鉄骨に向かって目を閉じてみると、炎の夜の恐怖がよみがえる。
 戦争の実相を伝える“証人たち”に静かに心を傾け、
 不殺生の誓いを新たにしましょう。

隅田山 多聞寺




写真:都営白鬚東アパート
見るからに異様なこのアパートの説明は内閣府の防災情報のページから引用します。
このあたりは江東デルタ地帯で最も災害危険度の高い地域であったことなどから、隅田川沿いの大規模工場跡地を東京都が買収、都の「防災拠点」構想のもとに再開発が行われた。具体的には、堤通に高さ40mの高層住宅を1.2kmにわたり防火壁の役割を果たすよう配置し、内側には約9haの避難広場を設け、災害時には約8万人を収容するため、約1週間の逗留に必要な飲料水・食料・医薬品等を備蓄するという壮大なもので、地上13階地下1階の建物群は地盤のよい洪積層まで杭を打ち、地下部分には水槽等を設けて転倒防止が図られ、関東大震災クラスに対応できる強度を持つよう作られている。
いざ防火壁となる際に住民は避難するとしても、家財はそのまま犠牲になるのかと思っていたら、その対策もなされているそうで、防火壁となる場合にはベランダはすべてシャッターでおおわれ、過熱防止のための放水銃が備えられているほか、屋上に大きな水のタンクがあり、建物全体を守る工夫がされているとのことです。


写真:榎本武揚公像
アパート敷地内の梅若公園にこの銅像があるのですが、住まいはもう少し南の向島で墨堤を馬に乗ってこの辺りまで来ていたということでこの銅像が建てられたようです。都営白鬚東アパートが建設される前の大規模工場とは、のちにカネボウとなる鐘淵化学の工場だったのでしょうか。


写真:白鬚神社
幸か不幸か節分の日に当たってしまったので、節分祭が行われていた神社のまわりは自転車で一杯。境内は人がいっぱいで、お参りは断念しました。














写真:向島百花園
こちらにお祀りされている福禄寿が隅田川七福神の一つとなっているのですが、七福神巡りで庭園に行くのも、有料なのも珍しいです。福禄寿をお祀りしているから、福寿草を置いてあるのかな?曇り空で花が開かずちょっと残念です。
こじんまりした趣のある庭園ですが、向島百花園のページで由来を確認して納得できました。引用します。
江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた庭園。庭を造ったのは、それまで骨とう商を営んでいた佐原鞠塢。交遊のあった江 戸の文人墨客の協力を得て、旗本、多賀氏の元屋敷跡である向島の地に、花の咲く草花鑑賞を中心とした「民営の花園」を造り、開園しました。
開園当初は、360本のウメが主体で、当時有名だった亀戸の清香庵字臥竜梅の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれたほどです。その後、ミヤギノハギ、筑波のススキなど詩経や万葉集などの中国、日本の古典に詠まれている有名な植物を集め、四季を通じて花が咲くようにしました。「百花園」の名称は、一説では、「梅は百花に魁けて咲く」または「四季百花の乱れ咲く園」という意味でつけられたものです。
百花園は当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なった美しさをもっています。
民営としての百花園の歴史は昭和13年まで続き、同年10月に最後の所有者の小倉未亡人から東京市に寄付され、翌14年7月に東京市が有料で制限公開を開始しました。なお、昭和53年10月に文化財保護法により国の名勝及び史跡の指定を受けました。



写真:鳩の街
風情のある商店街という感じでしたが、赤線だったのですね。Wikipediaから引用します。
鳩の街(はとのまち)は現在の東京都墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。地理的に「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。太平洋戦争末期に、東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒か、この地で開業したのが始まりという。終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、1946年(昭和21年)に米兵の立ち入りが禁止された。その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展した。
この街の店舗は、警察の指導でカフェー風に作られた。1952年(昭和27年)当時は、娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。
また、吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となった。さらに、永井荷風がこの地を舞台に戯曲「渡り鳥いつかへる」「春情鳩の街」を書いている。これらの荷風の2作品は、久保田万太郎の手により構成され「『春情鳩の街』より渡り鳥いつ帰る」として映画化され、森繁久弥、田中絹代、高峰秀子、岡田茉莉子らが出演した。
玉の井と同様に、この街も訪れる作家や芸能人が多く、吉行や荷風の他、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、小沢昭一などが、出入りしたことが知られている
また、女優・歌手の木の実ナナがこの地で生まれ育ったことで有名である。
1958年(昭和33年)4月1日に売春防止法が完全施行され、すべての業者が廃業。最終日の3月31日には「蛍の光」を流して別れを惜しんだ。跡地は商店街やアパートなどの住宅となった。
現在でも、商店街の裏に入ると色タイルを貼った娼家風の建物が多少残っているが、老朽化による建て替えや改築により、それらも少なくなった。
また、今も、商店街や道路の名称として「鳩の街」の名は残っている。商店街は、下町らしい活気のある街であったが、現在はシャッターを下ろした店が多い。



写真:弁財天石碑(長命寺)

写真:子供地蔵(長命寺)

写真:大雄宝殿(弘福寺)

写真:布袋尊石碑(弘福寺)

写真:弘福寺山門
隣り合う二つのお寺で弘福寺の本殿が立派なのに比べ、入り口が幼稚園となっている長命寺は貧弱に見えました。弘福寺大雄宝殿は国もしくは都の文化財になっているのではないかと思うほど立派です。でも調べてみると区指定有形文化財でした。黄檗宗の禅寺ということで、山手七福神の瑞聖寺と同じ宗派です。瑞聖寺大雄宝殿は国指定有形文化財に指定されています。
長命寺はいろいろ面白いことが書いてあったのでWikipediaから引用します。
由緒
この寺の創建年代等については不詳であるが、平安時代円仁の開山により創建されたとも、慶長年間(1596年 - 1615年)に創建されたともいう。もとは宝樹山常泉寺と号していたが、江戸幕府3代将軍徳川家光の命により現名に改められたという。それは、家光の放鷹の途中で、軽い病気(微恙)になってここで休憩したので、僧孝海が加持のうえ境内の般若水で薬をすすめると、効験あって治癒した。家光は喜んでその井戸水を長命水と名付けて家康の画像を付して毎年供養料を給したという。

月香楼
1888年(明治21年)の夏、境内にあった桜もち屋月香楼の二階に、正岡子規が仮寓していたことがある。子規は三か月あまり滞在して、『七草集』を書いたが、その「蕣(あさがお)の巻」に含まれる子規唯一の能作品に登場するシテの女のモデルが、月香楼の一人娘山本陸(やまもとろく)である。陸は当時15,6歳で、子規の思慕の対象として噂の種となった。

門前
長命寺のある向島は、徳川吉宗ゆかりの桜の名所「墨堤の桜」を抱え、花見や隅田川花火大会でにぎわう。関東風の桜もち発祥の地とされる「長命寺桜もち」や、言問橋の名称の由来となったとの説もある「言問団子」が並ぶ。



写真:向島墨堤組合
江戸中期になると社会も安定し、連歌や俳諧などの会席が料理茶屋で開かれるようになった。こうした宴の席に華を添えるため、踊りや唄で客をもてなす芸妓が現れ、花柳界が誕生。以降、幕末まで大いに栄えた。しかし、明治に入ると、急速な近代化の中でこうした「江戸情緒」は徐々に失われていく。
伝統や文化の喪失を惜しむ多くの文化人は、風光明媚な向島に居を移し、新たな文学や芸術を創造し、花街もかっての賑わいを取り戻していった。粋な空間で楽しむ「お座敷遊び」は、文人墨客に愛され、やがて一般の人にも普及していった。
向島には、今なお料亭のお座敷と芸妓、舞や唄いなどの伝統芸能が脈々と継承されており、一種独特の文化圏が保たれている。
向嶋墨堤組合は、料亭、置屋、芸妓衆など花街の統括管理が主な業務で、平成24年3月現在、16軒の料亭が加盟し、100名を越える芸妓衆が登録している。規模は都内随一で、作法、所作に始まり、お座敷でのおもてなしの心を身につけるために、西川流や猿若流などの日本舞踊の他、鳴物、清元、長唄、常磐津、笛を専属の師匠について修練している。



写真:三囲神社摂社



写真:池袋三越のライオン像
このライオンを見て、「三越本店のライオン像が戦時中三越により東郷神社に寄付されていたので溶かされずに済んだ」いう話を聞いたことを思い出しました。聞いた話とは少し話の流れが違うのですが、「銀星の瓦版」というサイトの記述を引用します。こちらの話の方が信ぴょう性がありますね。
三越のシンボルとしても有名なライオン像は、1914年に日本橋本店の玄関前に設置されました。
日本初の百貨店として新店舗をオープンした際、当時の支配人だった日比翁助(ひびおうすけ)氏のアイデアにより、二頭のライオン像を設置したのが始まりだったそうです。
像がライオンだった理由は、日比氏が「ライオンが好きだった」という非常にシンプルなもの。それ以外にも「三越を商売の王者にしよう」という意気込みが込められているのだそうです。
ちなみに、日比氏のライオン好きは相当なものだったらしく、自分の息子にも「雷音」と名付けたこともあるそうです。
ライオン像は青銅でできており、長さは269cm、頭までの高さは120cmあります。
この像は、日比氏が百貨店開設の準備で欧米を視察した際、イギリスで注文したもので、英国の彫刻家メリフィールドが型をつくり、鋳造家バルトンが制作したものだそうです。
ロンドンのトラファルガー広場にある、ネルソン提督像を囲んでいるライオン像がモデルになっているそうで、有名な彫刻家に作らせたということもあり、当時、イギリスの彫刻界では相当話題になったようです。
そんなライオン像ですが、太平洋戦争の際には、金属回収のために海軍省に供出されてしまったそうです。
しかし、この像は幸運にも溶解を免れていました。
戦後は行方不明とされていたのですが、渋谷区にある東郷神社に奉納されているのを、三越の社員が発見し、昭和21年には無事に本店に戻されました。
東郷神社によると「海軍の担当者の依頼で、神社の敷地内にあった防空壕の中に隠しておいたのです。戦局の悪化を見越して、溶かして武器にする無意味さを悟っていたのでは」とのこと。
このライオン像は関東大震災の際も焼け残っており、震災と戦争を乗り越えてきたことで「日本橋の生き証人」とも呼ばれ、三越の守り神として現在も愛され続けています。
ちなみにですが、2009年に閉店した池袋三越のライオン像は、三越と縁の深い三囲神社に奉納されているそうです。






写真:稲荷神社(三囲神社摂社)
老翁老嫗の石像

 元禄の頃、この三囲稲荷にある白狐祠を守る老夫婦がいました。願い事のある人は老婆に頼み、老婆は田んぼに向かって狐を呼びます。すると、どこからともなく狐が現れて願い事を聞き、またいずれかへ姿を消してしまうのです。不思議なことに、他の人が呼んでも決して現れることがなかったそうです。
 俳人其角は、そのありさまを「早稲酒や狐呼び出す姥が許」と詠んでいます。老婆の没後、里人や信仰者がその徳を募って建てたのが、この老夫婦の石像であると伝えられています。老嫗像には、「大徳芳感」、老翁像には「元禄十四年辛巳五月十八日、四野宮大和時永、生国上州安中、居住武州小梅町」と刻まれています。
 平成18年(2006)12月 墨田区教育委員会




写真:東京スカイツリー
押上まで歩き、スカイツリーを見上げながらストレッチをして解散となりました。関東大震災以降に人口が急増した山の手地域とは異なり、下町の歴史は奥深いものを感じとても面白い七福神めぐりでした。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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