目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

南東部公園コース 約7.0km

2018-02-15 10:52:07 | ウォーキング
区内を巡る定番コースで、一年に二回このコースを歩いています。区内の定番コースは参加者が少なかったりするのですが、この日は22名の参加がありました。



写真:目黒川
集合は中目黒GTで、スタート時間になると目黒川舟入場へ移動してストレッチをしてウォーキング開始です。田楽橋から眺める目黒川では、アオサギの大きな姿が目立ちます。その下流では川床の改修工事が行われ、オイルフェンスのようなものが浮いていました。



写真:目黒清掃工場
現在建替え工事が進められています。


写真:田道橋から見た目黒川



写真:目黒区民センター
ジム、プール、体育館、図書館があり区立美術館が隣接する文化施設です。いつどんな目的で建てられたものかなかなか資料にたどり着かないのですが、その歴史は半世紀近くになります。「被爆二世のカキ」など、平和を願うものが多く設置されいて「平和の鐘」というものもあります。ある区議のブログから引用します。
「めぐろ平和の鐘」は人間国宝で名誉区民の鋳金家・香取正彦氏の作品で、広島平和の鐘、カナダ・バンクーバー市平和の鐘と同型の、いわば三姉妹に当たる梵鐘です。
昭和60年に目黒区が平和都市宣言をした記念として、香取氏から寄贈された梵鐘を「めぐろ平和の鐘」と命名し、世界恒久平和と区民の限りない幸せを記念して区民センター公園に設置しました。
香取氏は、戦時中の金属供出で全国からたくさんの鐘が失われたことを悲しみ、戦後は平和の願いを込めた鐘を作り続け、昭和52年に人間国宝に指定されました。8月6日区民センターで行われる「平和祈念のつどい」の後、12時半から「平和の鐘の打鐘」が行われます。



写真:玉川屋
和菓子屋さんのホームページから引用します。
目黒仁王餅
北海道産の小豆を使用した自家製のつぶし餡を、わらび餅でやさしく包み黄な粉を降りかけました。
由緒ある目黒不動尊に奉ってある仁王様(当時、玉川屋3代目が寄進)にちなんでこしらえた看板商品です。
第二次世界大戦の戦火は目黒にも及び昭和20年5月24日目黒不動尊は、一部の建物を残して焼けてしまった。
戦後の復興はまず本堂の再建に始まり25年いち早く完成し、次は由緒正しき仁王像となった。
29年当時玉川屋三代目小川雄一・りよ夫妻は仁王像の寄進を青木大僧正に申しいでその制作を木彫会に雄として知られていた後藤良氏に依属し快諾して頂いた。
ことは順調に進み高弟線引司郎氏の協力をえて32年早春三尺の原型が完成した。それと同時に後藤氏は76歳の生涯を突如として閉じたのであった。
原型から木に移す作業は吉田暁未氏の協力によって行われ、昭和35年8月26日めでたく完成、のみ納め式が行われた。仁王門の完成をまって昭和36年4月2日落慶式が行われた。
その前夜後藤夫人イクさんは重荷を下ろしたかのように急逝したのであった。



写真:交差点二階のお店

写真:すき家の前
山手通り(都道317号)と目黒通り(都道312号)の交差点。大きな通りですがどちらも都道ですね。二階のお店はHOという規格の鉄道模型で有名な「カツミ」の直営店だそうです。下のすき家の前には、母娘の像がベンチに座っています。由来はネットで調べてもわかりません。


写真:大鳥中学校

写真:風呂屋の鯱
大鳥中学校は三中と四中が合併して三中の後にできました。6-3-3制の施行により昭和22年5月に開校した目黒区の中学は一中から十一中の11校でしたが、生徒数の増加により昭和31年に一中の分校が作られ、昭和33年に東山中学校が分校から昇格して12校になりました。二中、五中、六中が統合され中央中学校となり大鳥中学校を含めて現在目黒区立の中学校は9校となりました。


写真:白梅と多聞天(目黒不動尊)

写真:大日如来坐像(目黒不動尊)

写真:本堂脇の看板(目黒不動尊)
看板には「不動明王本地仏」とあり、「不動明王の正体は大日如来」という意味です。大日如来は未年と申年の人の守護本尊なのですね。調べてみて面白いことを発見しました。不動明王は大日如来の化身ですが、酉年の守護本尊なのです。化身になると変わるんだ。そのほか、阿弥陀如来は戌年と亥年、勢至菩薩が午年、普賢菩薩が辰年と巳年、文殊菩薩が卯年、虚空蔵菩薩が丑年と寅年、千手観音菩薩が子年の守護本尊です。


写真:紅梅

写真:灯篭

写真:神変大菩薩

写真:家光の鷹

写真:白梅

写真:手水舎
女坂を下り神変大菩薩様に会長が早く元気に歩けるようお参りをしてきました。


写真:比翼塚
PDD図書館というページから引用します。
 江戸の初め、鳥取藩士平井権八(?~1679)は父の同僚本庄助太夫を殺害して江戸に逐電。吉原三浦屋の遊女小紫と馴染となって金に困り、浅草日本堤で通行人から金銭を奪い辻斬り殺人強盗を重ねました。
 ある時、この寺の住僧随川にかくまわれ、尺八を習いました。改心した権八は死ぬ前にもう一度両親に会いたいと思い、虚無僧となって郷里鳥取に帰りましたが、すでに両親とも他界していました。観念した権八は江戸に戻って自首し、鈴ヶ森で処刑されました。
 随川によって遺骸は東昌寺に葬られましたが、そこへ小紫が吉原から抜け出てきて権八の墓の前で後追い心中しました。人々は二人を哀れみ建てられたのが、この比翼塚です。

 平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、白井権八のモデルとなりました。
 また、江戸に出奔して行く美貌の若侍白井権八が、鈴ヶ森で大勢の雲助にからまれて、やむなく切り払って立ち去ろうとした時、江戸の侠客幡随院長兵衛(1622~1657)が駕籠の中から権八を呼び止める「お若えの、お待ちなせえやし」の名科白はご存知と思います。正当防衛とはいえ人を斬ったのを見られた権八はうろたえますが、長兵衛は口外しないと安心させ「いつでも尋ねてごぜえやせ。陰膳すえて待っておりやす」と江戸での再会を約束する名場面です。



写真:石古坂
林試の森公園前のこの坂は古くからの道で、江戸時代目黒や世田谷の農家が野菜を売りに毎日通った道です。もう少し南へ行った武蔵小山に「朝日地蔵尊」があり、農民がこのあたりを歩いたのがちょうど夜明けだったことがわかります。江戸時代は一日を日の出日の入りで二つに分け、日の出の時間を「明け六つ」、日の入りの時間を「暮れ六つ」としていたので、太陽の位置と生活の時間が一致していたのですね。









写真:都立林試の森公園
都立公園のページから引用します。
ここは明治33年(1900年)6月に当時の農商務省林野整理局が「目黒試験苗圃」としてスタートしたのが始まりで、その後「林業試験場」に名称を変更、林野庁の付属となり昭和53年まで営々として使用されてきました。
そして、筑波研究学園都市の建設に伴い、移転した跡地を整備し、「目黒公園」の暫定開放期間を経て、平成元年6月1日に「都立林試の森公園」として生まれ変わり開園しました。
この公園は東西に700m、南北に250mと細長く、外周の園路をぐるっと一周すると45分程で廻れます。

カワヅザクラは二分から三分咲と言ったところです。


写真:羅漢寺川緑道

写真:夏ミカンの収穫

写真:六畝川プロムナード

写真:碑文谷ベーカリー

写真:この花何の花

写真:環状6.5号線
区内では「補助26号線」として親しまれているこの道路は、環状六号線と七号線のあいだにあることからタモリ倶楽部では環状6.5号線いう名をつけて辿る企画がありました。Wikipediaから引用します。
概要
東京都道420号鮫洲大山線は、東京都品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るが、おおむね東京都道317号環状六号線(山手通り)と東京都道318号環状七号線(環七通り)の中間を通り、それらを補完する役割を担っている。

通称
中野通り
南長崎六丁目交差点 - 笹塚交差点
千川通り交差点~南長崎六丁目交差点、笹塚交差点~大山交差点も含まれることがある。
三宿通り
三宿池尻交差点 - 五本木交差点

26号線通り
目黒郵便局前交差点 - 戸越三丁目交差点
(東京都都市計画道路補助26号線に由来)
また、国道254号大山西町交差点より終点方向への約300mの区間は、ハッピーロード大山のアーケード街を経由している。



写真:清水池公園

写真:七中
碑さくら通りを西へ向かいます。










写真:すずめのお宿公園
モニュメントにかかれた由来です。
すずめのお宿緑地公園の由来
この付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群れをなして帰ってくることからいつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。
この土地の所有者角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしておりましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。
その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として、利用することができることとなったものです。
ここに「すずめのお宿緑地公園」の由来を記して、故人のご遺志に深い感謝をささげます。
昭和五十六年四月吉日 目黒区長 塚本俊雄

目黒区のページから。
今からおよそ200年前、江戸時代安永年間に始まったという目黒の筍栽培は、大正中頃に最盛期となり、有数な竹林だったこの地では良質の筍が収穫されたと言われています。
また昭和のはじめ頃、この竹林は付近一帯のスズメのねぐらになっていました。数千羽というスズメが朝どこへともなく飛び立ち、夕方には数百羽が一団となって帰り、空が薄暗くなるほどだったそうです。そのためこの場所は「スズメのお宿」と呼ばれるようになりました。
今でも竹林やシイ・ケヤキの大木が残り、野鳥が多く生息しています。なお北側の一角に栗山家の母屋(目黒区指定有形文化財)が復元されています。



写真:サレジオ教会
Wikipediaから引用します。
1954年5月22日に落成。36m余の鐘塔を備えたロマネスク様式の大聖堂で、1708年に来日し、小石川切支丹屋敷にて死去した宣教師ジョヴァンニ・シドッティを偲ぶカルロ・ドルチのマリア像「悲しみの聖母」(江戸のサンタ・マリア)が内部に掲げられている。延床面積は752m2。鐘はミラノの信者から寄付されたもので、ラ・ド・ミの美しい音色を奏でる。


写真:碑文谷ダイエー前のマセラティ

写真:フェラーリ
この二軒は以前東京日産でした。マセラティに乗る人騒々しい運転をする人が多いと感じているのは私だけでしょうか?



写真:碑文谷公園

写真:子供動物広場(碑文谷公園)
死体遺棄事件があった時、警察が捜索している映像を見た番組担当者が「水抜いちゃえばいいのに」と言ったことが、「池の水ぜんぶ抜く」という企画の始まりだったそうです。
子供動物広場については、目黒区のページから引用します。
ポニー乗馬(引き馬)
中学生以下のかた(就学前のお子さんは保護者のかた同伴)を対象に、公園内の約150メートルのコースをポニーに乗って往復します。
利用時間午前10時から11時半まで、午後1時半から3時までです。
1人1回200円。当日ポニー舎で乗馬券を購入してください。

ポニー教室(個人)
小学生・中学生を対象とした、3か月の定期登録制で、動物の世話や乗馬を通じて生きものへのいたわりや集団活動での協調性を養います。
開園日の午後3時から午後5時まで。自分の都合が良い日であれば期間中何回でも参加できる制度です。
料金は3か月で2,400円。
募集は2月・5月・8月・11月の年4回(応募多数の場合は抽選を行います)。
募集の詳細は下記のチラシや現地掲示及びめぐろ区報でお知らせします。


碑文谷体育館でストレッチをしていたら体育館の館長長谷川さんがご挨拶に来てくれました。長谷川さんは総合型地域スポーツクラブ スポルテ目黒の創設メンバーで、目黒区民の体育事業をけん引されています。長谷川さんの写真はこちら

ストレッチ後はクラブハウスだと勝手に思っている和食レストラン天狗で反省会。春の旅行の話題などで盛り上がりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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