年末に下見に行ってきました。久しぶりに一眼レフを持つと撮影にストレスがなく、うれしくなって大量に写真を撮りました。そのため今回の下見は複数回に分けてご報告します。まずは祐天寺です。
祐天寺
祐天寺(浄土宗)
中目黒5-24-53
祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋岩見(ほっきょういわみ)の名作です。(都指定文化財)。また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
本寺所蔵の「般若心経」1巻、「紺紙金字(こんしきじ)法華経巻第三」1巻(ともに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
なお、境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
墓地には、「祐天上人の墓」(都旧跡指定)や柳原愛子(やなぎはらなるこ)(大正天皇生母)の墓等の名墓及び「白子組並びに難目の海難供養碑」(ともに区指定文化財)などがあります。
平成3年3月
目黒区教育委員会
荏原郡忠死者弔魂碑
子まもり地蔵尊
地蔵堂門
地蔵堂
表門を入ると右側にお地蔵さま、左側に地蔵堂があります。
島崎七郎翁像
島崎七郎先生は明治15年12月16日東京府荏原郡目黒村大字上目黒字田切2424に生を享けた
生家は目黒在住四百年を誇る旧家で厳父忠左衛門氏は青年時より百姓総代村長等の要職を歴任して明治新政下の村長を指導した郷土愛と優れた政治力はそのまま先生に継承され大正8年荏原郡会議員当選後村長区と変遷する目黒の議員として活躍し出でて東京府市都議会議員になって四十余年の永きを目黒区発展のため盡した功労は天聞に達し昭和25年藍綬褒章を授与された
ここに有志一同先生の胸像を建てるに当りその功労の一端を記して永く顕彰する次第である
昭和34年11月
安井誠一郎 撰
中村英正 書
海難供養碑
海難供養碑
灘目の海難供養碑1基
白子組の海難供養碑1基
目黒区指定文化財(昭和62年3月31日指定)
中目黒5-24-53
江戸時代に灘の樽廻船と、関西の木綿問屋仲間白子組の廻船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州海で大風などに遭い、度々沈没しました。
この2基の海難供養碑は、その遭難者の慰霊のために江戸の商業問屋仲間が建立したものです。いずれも祐天寺住職であった祐全、祐東自筆の名号が刻まれ、当所から当寺に建てられたものと推定されます。
供養碑に刻まれた碑文により、度重なる海難の事実を知ることができます。またそれぞれの廻船および海難事故については、船籍所在地の史料からも史的事実の裏づけがなされています。祐天寺の海難供養碑2基は近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究において貴重な資料です。
平成21年3月
目黒区教育委員会
仁王門
仁王門
目黒区指定有形文化財(建造物)
昭和55年2月12日指定
中目黒5-24
この仁王門は冶王像とともに、享保20年(1735)の建立で、5代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。
桁行8.5m(28尺)、梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造本瓦葺型銅版葺(昭和6年本葺よりふきかえ)円柱は欅材です。
正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配しています。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られm方位を示しています。
各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。
平成5年3月
目黒区教育委員会
累塚
かさね塚の由来
祐天上人は増上寺第36代の代僧正で徳川家5代~8代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
寛文8年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累一族の怨霊を化益された事跡あり。
文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。
大正15年、6世尾上梅幸、10代市村羽左衛門、5世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の遺徳に欲することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興行の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習となっている。
梵鐘
梵鐘
目黒区指定有形文化財(工芸品)
平成26年9月26日指定
中目黒5-24-53
総高179.6cm、口径102.2cm。この梵鐘は、享保13年(1728)年に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回忌の追善供養のため、正室の天英院(近衛熙子)が発願し、翌享保14年に完成したものです。鋳造は祐天寺の敷地内で行われたことが記録に残り、鋳身には何回かに分けて鋳造されていった痕跡が見られます。鐘には、祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘并記」をはじめ南無阿弥陀仏の名号および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用掛、工匠の名などが刻まれています。
また鐘の上部には徳川家の家紋の三葉葵、下部には天英院の実家である近衛家の家紋の牡丹が陽鋳されています。徳川家と祐天寺の関係を示すだけでなく、目黒区の郷土資料として貴重です。
元文3(1738)年の27回忌追善を期に時の鐘として撞かれることになり、現在でも朝6時と正午前に撞かれています。
平成27年3月
目具区教育委員会
阿弥陀堂
阿弥陀堂
目黒区指定有形文化財(建造物)
平成5年6月29日指定
阿弥陀堂は、5代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。
同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。
名棟札の記載事項は、建築様式および沿岸から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行われたにもかかわらず、回禄や倒壊などによる根本的な再造営は、行われなかったものと考えられます。
祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。
〔注〕回禄とは火の神のこと。転じて火災のこと。
平成7年3月
目黒区教育委員会
写真を撮り忘れていますね。失礼しました。
御本堂
木造祐海上人坐像
木造祐海上人坐像
区指定文化財(昭和53年3月22日指定)
中目黒5-24-53
この像は祐天寺2世祐海56歳の姿を写した寿像です。元文2年(1737)に弟子たちが発願し、大仏師法橋石見により製作されました。
本堂に安置され、像高48.3cm。寄木造、彩色、一部金泥塗り、玉眼、円頂、頭部は襟際で挿首。法衣に環付の袈裟をかけ、合掌、趺坐の姿をしています。
祐海自著の銘文が墨書され、文化5年(1808)に祐海の遺言とともに納められました。
江戸時代中期の紀年を有する入念な肖像彫刻として貴重であり、内刳の内部に箔押を施しているのは本尊祐天上人坐像にならったもので、大変珍しい遺例です。
平成21年3月
目黒区教育委員会
旧崇源院霊屋宮殿
東京都指定有形文化財(建造物)
旧崇源院霊屋宮殿
所在地 目黒区中目黒5-24-53
指 定 平成27年3月16日
旧崇源院霊屋宮殿は、徳川二代将軍秀忠の夫人で三代将軍家道の生母、江(宗源院)の位牌を祀るために寛永5年(1628)に建立された宮殿で、元々は家康の側室である愛の菩提寺の、駿府(静岡市)金米山宝台院龍泉寺の崇源院霊屋にあったものです。その後、八代将軍吉宗の治世(1716-45)にこの霊屋が畳まれた際に、目黒区の明顕山祐天寺に寄付されました。現在は徳川家康像を安置します。
本宮殿は、正八角形を基本とする変形六角形の特異な形式です。これは将軍夫人の宮殿に限定的に用いられた形式と考えられ、類似の宮殿が芝増上寺の徳川家霊廟にありましたが戦災焼失したため、本件は存在が知られるものとしては現存する唯一の遺構です。禅宗様の建築技法や豊富な金具による豪華な装飾は、徳川将軍家にふさわしい顕著な特徴で、その典型例でもあります。
本件は、歴史的・文化的意義を有するとともに、学術上・芸術上の価値が極めて高いものです。
平成28年3月 建設
東京都教育委員会
これは本殿に安置されており、江戸東京博物館の特別展で展示されたことがあるとのこと。その際撮影禁止だったためか、画像検索をしても写真が見つかりません。
地蔵菩薩像
五社稲荷
祐天上人が出家を決意した際に(誕生の際との説もあり)白狐(びゃっこ)が三声鳴いたと言われており、その白狐を祐天上人の守護神として祀った随身稲荷がこの稲荷社の前身です。のちに松黒、富山、天白、妙雲の四社が合祀(ごうし)され、現在の五社稲荷となりました。
仏舎利殿
小学校に上がる前から何度も訪れている祐天寺ですが、知らないことが多いことに気づかされます。
祐天上人墓
東京都指定旧跡
祐天上人墓
所在地 目黒区中目黒5-23-17 祐天寺墓地内
仮指定 大正14年6月6日
指 定 昭和30年3月28日
祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。陸奥国岩城郡(福島県)四倉村に生まれ、伯父の芝増上寺内池徳院休波を訪ねて江戸に上がります。その後檀通を師として修学し、諸国修行の旅に出ました。
牛島で念仏生活を続けていたところ桂昌院の帰依を得て、将軍綱吉との関係も深まります。元禄12年(1699)に下総国生実大厳寺の住持となり、宝永丸年(1704)には伝通院住持となりました。たびたび江戸城に召され、とりわけ大奥の人々が深く帰依しました。正徳元年(1711)将軍家宣より芝増上寺住持を命じられ、三十六世となり大僧正に任ぜられました。多数の寺院の復興などを行い、多くの人々の帰依を得ました。
正徳四年(1714)隠居し、享保三年(1718)入寂しました。
祐天寺は、祐天上人の遺言により高弟祐海が念仏道場を建立したことに始まります。祐天を開山とし、祐海は二世となりました。
墓はいわゆる無縫塔で、倒卵部分の高さは90センチメートルを計ります。六角板状の基部があり「当寺開山 祐天大僧正」などと記されています。
平成24年3月 建設
東京都教育委員会
歴代住職の墓
柳原家の墓
柳原愛子について、Wikipediaから引用します。
和歌に優れ、宮中歌会始に3回撰歌したという。皇太子妃時代の貞明皇后の教育掛りを担った際は「かげになり、日向になり、年若い妃をおかばいし」、16歳の少女であった皇后は「そのあたたかい思いやりを、実の母のようにうれしく思った」という。裁縫をよくした皇后は、この「母」の米寿の祝いに88枚の美しい時代裂を集め、布団を縫い上げて贈った。
気配りの出来る女性だったようで、夜勤当番の女官におやつの菓子を渡しながら気遣いの言葉を掛けたり、自分に来た贈答品や献上品を宮中の下働きの女性達に分け与えた。その為、宮中女官達から慕われていたと伝えられている。
明治天皇の崩御後は準皇族の扱いを受け、大正天皇臨終の際、貞明皇后の配慮によって枕辺で別れを告げたという逸話を残す。柳原愛子は鎌倉の別宅から毎日葉山へ看病に通い、皇后は「何をおいても御病室に通せ」と女官に命じていた。このとき病室へ入れたのは、皇后の意思により看護の者を除いては皇后と皇太子夫妻、直宮たちと柳原愛子のみであった。病人の妻子と実母のみの病室であった。天皇の臨終の際の柳原愛子の様子は「よよとばかり、御枕辺に二位局 老の身痛はしく 張り詰めた気もくじけて」と朝日新聞が伝えている。
1943年(昭和18年)の彼女の他界の際に皇后は信濃町の彼女の家を訪れ、生者にするように彼女の手を取り「長い間、わたくしが大過なく過ごしてこられたのは、全くあなたのおかげです」と述べた。
大正天皇が暗愚であったという風説は大正時代からあり、そのためその遺伝的な根拠を柳原愛子に求め、非難する傾向があった。実のところは慢性的脳膜炎が変調の原因であり、これは明治天皇の夭折した10人の子女の死因でもある。
宝篋印塔
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは『宝篋印陀羅尼(だらに)経』を納める塔のことです。この塔に一香一華を供えて礼拝すればあらゆる罪障(ざいしょう)が消滅し、この世では厄難(やくなん)から逃れて長寿を得ることができ、死後は必ず極楽に生まれ変わると信仰されました。
石塔の隙間から蜂が出入りしていたので撮ってみましたが、蜂の様子まではわからないようです。石塔前に丸い穴がある水槽?の石くぐりが、子供の頃にお墓参りに訪れた際の一番の楽しみでした。
祐天寺もいろいろと見どころがあります。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
祐天寺
祐天寺(浄土宗)
中目黒5-24-53
祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されています。この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋岩見(ほっきょういわみ)の名作です。(都指定文化財)。また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
本寺所蔵の「般若心経」1巻、「紺紙金字(こんしきじ)法華経巻第三」1巻(ともに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
なお、境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
墓地には、「祐天上人の墓」(都旧跡指定)や柳原愛子(やなぎはらなるこ)(大正天皇生母)の墓等の名墓及び「白子組並びに難目の海難供養碑」(ともに区指定文化財)などがあります。
平成3年3月
目黒区教育委員会
荏原郡忠死者弔魂碑
子まもり地蔵尊
地蔵堂門
地蔵堂
表門を入ると右側にお地蔵さま、左側に地蔵堂があります。
島崎七郎翁像
島崎七郎先生は明治15年12月16日東京府荏原郡目黒村大字上目黒字田切2424に生を享けた
生家は目黒在住四百年を誇る旧家で厳父忠左衛門氏は青年時より百姓総代村長等の要職を歴任して明治新政下の村長を指導した郷土愛と優れた政治力はそのまま先生に継承され大正8年荏原郡会議員当選後村長区と変遷する目黒の議員として活躍し出でて東京府市都議会議員になって四十余年の永きを目黒区発展のため盡した功労は天聞に達し昭和25年藍綬褒章を授与された
ここに有志一同先生の胸像を建てるに当りその功労の一端を記して永く顕彰する次第である
昭和34年11月
安井誠一郎 撰
中村英正 書
海難供養碑
海難供養碑
灘目の海難供養碑1基
白子組の海難供養碑1基
目黒区指定文化財(昭和62年3月31日指定)
中目黒5-24-53
江戸時代に灘の樽廻船と、関西の木綿問屋仲間白子組の廻船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州海で大風などに遭い、度々沈没しました。
この2基の海難供養碑は、その遭難者の慰霊のために江戸の商業問屋仲間が建立したものです。いずれも祐天寺住職であった祐全、祐東自筆の名号が刻まれ、当所から当寺に建てられたものと推定されます。
供養碑に刻まれた碑文により、度重なる海難の事実を知ることができます。またそれぞれの廻船および海難事故については、船籍所在地の史料からも史的事実の裏づけがなされています。祐天寺の海難供養碑2基は近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究において貴重な資料です。
平成21年3月
目黒区教育委員会
仁王門
仁王門
目黒区指定有形文化財(建造物)
昭和55年2月12日指定
中目黒5-24
この仁王門は冶王像とともに、享保20年(1735)の建立で、5代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。
桁行8.5m(28尺)、梁間4.3m(14尺)棟高9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造本瓦葺型銅版葺(昭和6年本葺よりふきかえ)円柱は欅材です。
正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。また、中央間の内側には正面に麒麟、背面に海馬の二獣神を配しています。なお、頭貫上の蟇股には十二支が彫られm方位を示しています。
各虹梁、木鼻、肘木、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。
平成5年3月
目黒区教育委員会
累塚
かさね塚の由来
祐天上人は増上寺第36代の代僧正で徳川家5代~8代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
寛文8年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累一族の怨霊を化益された事跡あり。
文政年間、鶴屋南北が歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。
大正15年、6世尾上梅幸、10代市村羽左衛門、5世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の遺徳に欲することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累一族を供養して興行の無事と、上演の盛会を祈願することが慣習となっている。
梵鐘
梵鐘
目黒区指定有形文化財(工芸品)
平成26年9月26日指定
中目黒5-24-53
総高179.6cm、口径102.2cm。この梵鐘は、享保13年(1728)年に徳川6代将軍家宣(文昭院)の17回忌の追善供養のため、正室の天英院(近衛熙子)が発願し、翌享保14年に完成したものです。鋳造は祐天寺の敷地内で行われたことが記録に残り、鋳身には何回かに分けて鋳造されていった痕跡が見られます。鐘には、祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘并記」をはじめ南無阿弥陀仏の名号および願文、時の将軍吉宗、願主天英院、御用掛、工匠の名などが刻まれています。
また鐘の上部には徳川家の家紋の三葉葵、下部には天英院の実家である近衛家の家紋の牡丹が陽鋳されています。徳川家と祐天寺の関係を示すだけでなく、目黒区の郷土資料として貴重です。
元文3(1738)年の27回忌追善を期に時の鐘として撞かれることになり、現在でも朝6時と正午前に撞かれています。
平成27年3月
目具区教育委員会
阿弥陀堂
阿弥陀堂
目黒区指定有形文化財(建造物)
平成5年6月29日指定
阿弥陀堂は、5代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。
同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。
名棟札の記載事項は、建築様式および沿岸から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行われたにもかかわらず、回禄や倒壊などによる根本的な再造営は、行われなかったものと考えられます。
祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。
〔注〕回禄とは火の神のこと。転じて火災のこと。
平成7年3月
目黒区教育委員会
写真を撮り忘れていますね。失礼しました。
御本堂
木造祐海上人坐像
木造祐海上人坐像
区指定文化財(昭和53年3月22日指定)
中目黒5-24-53
この像は祐天寺2世祐海56歳の姿を写した寿像です。元文2年(1737)に弟子たちが発願し、大仏師法橋石見により製作されました。
本堂に安置され、像高48.3cm。寄木造、彩色、一部金泥塗り、玉眼、円頂、頭部は襟際で挿首。法衣に環付の袈裟をかけ、合掌、趺坐の姿をしています。
祐海自著の銘文が墨書され、文化5年(1808)に祐海の遺言とともに納められました。
江戸時代中期の紀年を有する入念な肖像彫刻として貴重であり、内刳の内部に箔押を施しているのは本尊祐天上人坐像にならったもので、大変珍しい遺例です。
平成21年3月
目黒区教育委員会
旧崇源院霊屋宮殿
東京都指定有形文化財(建造物)
旧崇源院霊屋宮殿
所在地 目黒区中目黒5-24-53
指 定 平成27年3月16日
旧崇源院霊屋宮殿は、徳川二代将軍秀忠の夫人で三代将軍家道の生母、江(宗源院)の位牌を祀るために寛永5年(1628)に建立された宮殿で、元々は家康の側室である愛の菩提寺の、駿府(静岡市)金米山宝台院龍泉寺の崇源院霊屋にあったものです。その後、八代将軍吉宗の治世(1716-45)にこの霊屋が畳まれた際に、目黒区の明顕山祐天寺に寄付されました。現在は徳川家康像を安置します。
本宮殿は、正八角形を基本とする変形六角形の特異な形式です。これは将軍夫人の宮殿に限定的に用いられた形式と考えられ、類似の宮殿が芝増上寺の徳川家霊廟にありましたが戦災焼失したため、本件は存在が知られるものとしては現存する唯一の遺構です。禅宗様の建築技法や豊富な金具による豪華な装飾は、徳川将軍家にふさわしい顕著な特徴で、その典型例でもあります。
本件は、歴史的・文化的意義を有するとともに、学術上・芸術上の価値が極めて高いものです。
平成28年3月 建設
東京都教育委員会
これは本殿に安置されており、江戸東京博物館の特別展で展示されたことがあるとのこと。その際撮影禁止だったためか、画像検索をしても写真が見つかりません。
地蔵菩薩像
五社稲荷
祐天上人が出家を決意した際に(誕生の際との説もあり)白狐(びゃっこ)が三声鳴いたと言われており、その白狐を祐天上人の守護神として祀った随身稲荷がこの稲荷社の前身です。のちに松黒、富山、天白、妙雲の四社が合祀(ごうし)され、現在の五社稲荷となりました。
仏舎利殿
小学校に上がる前から何度も訪れている祐天寺ですが、知らないことが多いことに気づかされます。
祐天上人墓
東京都指定旧跡
祐天上人墓
所在地 目黒区中目黒5-23-17 祐天寺墓地内
仮指定 大正14年6月6日
指 定 昭和30年3月28日
祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧です。陸奥国岩城郡(福島県)四倉村に生まれ、伯父の芝増上寺内池徳院休波を訪ねて江戸に上がります。その後檀通を師として修学し、諸国修行の旅に出ました。
牛島で念仏生活を続けていたところ桂昌院の帰依を得て、将軍綱吉との関係も深まります。元禄12年(1699)に下総国生実大厳寺の住持となり、宝永丸年(1704)には伝通院住持となりました。たびたび江戸城に召され、とりわけ大奥の人々が深く帰依しました。正徳元年(1711)将軍家宣より芝増上寺住持を命じられ、三十六世となり大僧正に任ぜられました。多数の寺院の復興などを行い、多くの人々の帰依を得ました。
正徳四年(1714)隠居し、享保三年(1718)入寂しました。
祐天寺は、祐天上人の遺言により高弟祐海が念仏道場を建立したことに始まります。祐天を開山とし、祐海は二世となりました。
墓はいわゆる無縫塔で、倒卵部分の高さは90センチメートルを計ります。六角板状の基部があり「当寺開山 祐天大僧正」などと記されています。
平成24年3月 建設
東京都教育委員会
歴代住職の墓
柳原家の墓
柳原愛子について、Wikipediaから引用します。
和歌に優れ、宮中歌会始に3回撰歌したという。皇太子妃時代の貞明皇后の教育掛りを担った際は「かげになり、日向になり、年若い妃をおかばいし」、16歳の少女であった皇后は「そのあたたかい思いやりを、実の母のようにうれしく思った」という。裁縫をよくした皇后は、この「母」の米寿の祝いに88枚の美しい時代裂を集め、布団を縫い上げて贈った。
気配りの出来る女性だったようで、夜勤当番の女官におやつの菓子を渡しながら気遣いの言葉を掛けたり、自分に来た贈答品や献上品を宮中の下働きの女性達に分け与えた。その為、宮中女官達から慕われていたと伝えられている。
明治天皇の崩御後は準皇族の扱いを受け、大正天皇臨終の際、貞明皇后の配慮によって枕辺で別れを告げたという逸話を残す。柳原愛子は鎌倉の別宅から毎日葉山へ看病に通い、皇后は「何をおいても御病室に通せ」と女官に命じていた。このとき病室へ入れたのは、皇后の意思により看護の者を除いては皇后と皇太子夫妻、直宮たちと柳原愛子のみであった。病人の妻子と実母のみの病室であった。天皇の臨終の際の柳原愛子の様子は「よよとばかり、御枕辺に二位局 老の身痛はしく 張り詰めた気もくじけて」と朝日新聞が伝えている。
1943年(昭和18年)の彼女の他界の際に皇后は信濃町の彼女の家を訪れ、生者にするように彼女の手を取り「長い間、わたくしが大過なく過ごしてこられたのは、全くあなたのおかげです」と述べた。
大正天皇が暗愚であったという風説は大正時代からあり、そのためその遺伝的な根拠を柳原愛子に求め、非難する傾向があった。実のところは慢性的脳膜炎が変調の原因であり、これは明治天皇の夭折した10人の子女の死因でもある。
宝篋印塔
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは『宝篋印陀羅尼(だらに)経』を納める塔のことです。この塔に一香一華を供えて礼拝すればあらゆる罪障(ざいしょう)が消滅し、この世では厄難(やくなん)から逃れて長寿を得ることができ、死後は必ず極楽に生まれ変わると信仰されました。
石塔の隙間から蜂が出入りしていたので撮ってみましたが、蜂の様子まではわからないようです。石塔前に丸い穴がある水槽?の石くぐりが、子供の頃にお墓参りに訪れた際の一番の楽しみでした。
祐天寺もいろいろと見どころがあります。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます