目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

北部公園コース 約6.0km

2021-01-10 11:24:00 | 東京都目黒区、渋谷区
あけましておめでとうございます!

本年もよろしくお願いいたします。

年明け初回の活動日です。第一土曜日が2日で正月三が日中だったので一週遅らせ9日からのスタートとなりました。計画にあたり例年通り山手七福神巡りをするか、withコロナで実施している8コースを採用するか少し悩みました。9日ということで山手七福神は「密」になるほど混んではいないと思いましたが、通常ではない年ということを象徴する意味でも七福神は個人で行っていただくこととして、withコロナ8コースを選択しました。来年は七福神めぐりが復活できるといいですね。今からそんなことを言っていると鬼に笑われるどころか、ビックリされそうですが。。。


目黒川とアトラスタワー
中目黒GTで集合し、舟入場でストレッチをする通常通りのルーチンです。緊急事態宣言の影響もあってか、例年より大幅に、最近の傾向では少し少ない10名でスタートです。冬の青空が広がっていました。


目黒高校のグラウンド
グラウンドというより檻のようでかわいそうな感じもしますが、ラグビー部の生徒が練習をしていました。全国高校ラグビーは残念ながら二回戦で負けてしまいました。


駒沢通り新道坂?
江戸時代は北の目切坂、南の別所坂が利用されており、駒沢通りとともに新しく開通したのが新道坂と思っていましたが間違いです。新道坂は骨とう品店の前、線路沿いの坂でこちらは江戸時代に作られたとのこと。駒沢通りのこの坂には名前はありません。

三田用水(目黒区のページから拝借)
この光景は目にしており記憶にもあるのですが記憶とはあいまいなもので土管(というより丸い鉄管)だと思っていました。鉄の掛樋だったのですね。


笑ってコラえて!の撮影
笑ってコラえて!を見ていると目黒川沿いでインタビューしている様子を見るのですが、撮影しているところは初めて見ました。この写真ではわかりませんが、たぶん「あなたはこの方をどう思いますか?」とインタビューされているところです。


マハカラのおいしいプリン

INTER BRUE

キンケロシアター

コカ・コーラの跡地

青葉台の傾斜地

菅刈住区センター
プリンはちょっと高いけどおいしいです。INTER BRUEは場所的に青屋に関連する会社かと思ったら関係ないコンサルタント会社でした。青屋は閉店してもうないのですね。??BSで時々コマーシャルに出てこないか?コカ・コーラ跡地の店舗と住宅の建物は間もなく完成といった感じ。厳しい時代に幕開けとなりますね。青葉台の傾斜地は南西向きで冬でも暖かそう。普段は撮らない住区センターも撮っておきました。


菅刈公園日本庭園の池

白梅

クロガネモチ

スイセン

カンザクラの蕾
朝は氷点下だったので凍っているかなぁと思って見に行ったのですが、まったく凍っていません。白梅は咲きはじめ。カンザクラはピンク色になってきました。


西郷山公園のカワヅザクラ
西郷山公園の丘のてっぺんにあるカワヅザクラは二輪だけ開花しています。ピンク色の蕾もあるので少しずつ咲いてゆくかも、でも早すぎです。12月に寒い日があったので、梅も桜も早いかもしれません。


マレイシア大使館

カトリック教会

ヤマザキカレッジ

ヒメリンゴ?
コースとしては旧山手通りの目黒区側を歩き、淡島通りを松見坂方面に向かってゆくのですが、東大駒場の中を歩けないので変更する必要があります。この日は寒かったので日差しを求めて旧山手通りの渋谷区側を歩き、山手通りに合流して駒場東大裏交差点まで渋谷区側。ヒメリンゴだと思いますが街路樹としては珍しいですね。


首都高中央環状線富ヶ谷入口

行幸通り

東大生御用達材木店

フレッシュネスバーガー一号店
山手通りを横断して行幸通りへ。山手通りから東北沢駅を通り大山交差点に至るこの道を「行幸通り」としている記述はほとんどありません。現在の東大先端科学技術研究センターへ昭和天皇が行幸するため整備され、三角橋から先が狭い道のままになっているという説。過去にこの記事を読んだページが更新されてこの説を否定しており行幸通りと呼ぶのは誤りのようです。
三角橋の「三角」も疑問に思っていましたが、どうやら小字のよう。目黒区の最北端が上目黒村字三角で三田用水のかかっていた橋が三角橋と名付けられたようです。


駒場公園東門

和館入口

古木に梅一輪

ガレージを模したトイレ


旧前田邸洋館

梅林
駒場公園へは東門から入ります。梅林には紅白の梅が咲きはじめといった感じでしたが、写真に撮るのは難しかったようです。駒場野公園まで歩き、ストレッチをしてこの日は解散となりました。

今回の緊急事態宣言、飲食の場での感染防止で抑え込めると考えている政府と、全体的な人出を減らしたい東京都の同床異夢でしょうか。この一二週間の感染者数の増減が、東京オリンピック開催是非を占う重要な期間になりそうです。個人としては感染しても重症化しない体力免疫力を維持しながら、感染防止に努めてゆくということですね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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すこやか歩こう会推奨富士コース 約7.1km

2020-09-21 09:10:29 | 東京都目黒区、渋谷区
このコースは令和2年2月に発行されためぐろウォーキングマップの作成にあたり、健康推進課、スポーツ振興課からの依頼を受けてすこやか歩こう会が提案したものです。めぐろウォーキングマップには「コース2 目黒と富士の絆を歩く」総距離約8.4kmとして紹介されていますが、すこやか歩こう会が提案したルートとは少し異なります。


駒場東大前駅ホーム

東大駒場坂下門
集合は東大駒場教養学部正門前で、この場所を借りてストレッチをします。ウォーキングマップでは井の頭線沿いを渋谷方面へ向かいますが、お勧めは東大駒場構内を歩き北門へ抜けるルートです。
しかし坂下門同様に北門も3月27日から封鎖されており、構内を歩くことはできないので、この日のウォーキングでは駒場公園を割愛し直接駒場野公園へ向かいました。駅ホームから見える正門へのアプローチを下ることはあまりないので撮っておきました。


駒場小学校
区内最北の区立小学校で菅刈小学校の分校が昭和9年に駒場尋常小学校として開校しています。


駒場野公園

十月桜

ケルネル田圃

アオサギ

水田の碑
水田の碑
駒場農学校の跡地
近代農学研究・農業教育発祥の地
 この水田は 明治11年 ここ駒場野に開校した農学校の農場の一部でわが国 最初の試験田 実習田として 近代日本の発展を支える淵源の一をなした
 農学校は いくたびか 学制の変更により 名称を変えて その歴史を継ぐ 学校が この地で発展を重ねた
 その間この水田は 近代農学研究発祥の地にふさわしい沿革をたどり 国際的 協力のもとに初めて 本邦近代農業の研究と教育とが進められ 幾多人材の輩出を見た
 本校は 東京農業教育専門学校附属中学校として 昭和22年 開校以来 右の歴史の流れを継いで この水田を教育の場に活用する栄光に恵まれ耕作をづけて 本年創立40周年を迎えた
 そもそも 農は 人類生存の基をなす営みである 本校は この水田のもつ 歴史的意味に想いを致し 幾多先輩の偉業を想起しつつ これを永く後世に伝え たいと考え ゆかりある方々の翕然たる協力を得て ここにこの碑を建立する
 なお 建立に際し 地元目黒区の理解と協力のあったことを録して 感謝の意 を表する
        昭和62年10月  筑波大学附属駒場中学校・高等学校



淡島通り沿いの駒場野公園
1986年開園の駒場野公園とは少し離れた淡島通り沿いにあるこちらの公園は、郵政省電気通信研修所が国分寺市へ移転した跡に整備されました。ウォーキングは淡島通りを渋谷方面へ進み右折をして、第三機動隊方面へ向かいます。


天覧台
公務員宿舎の私道沿いにあるためウォーキングマップではこの場所は紹介されていません。駒場の地には江戸時代お鷹場があり、幕末には幕府がフランス式軍隊の駐屯地にしようとして地元農民が一揆をおこしたという記録があります。明治政府が保証を提示したため一揆もなく帝国陸軍の施設が設置され、この高台からは明治天皇が11回、大正天皇が4回訪れたということでこの碑が建てられました。


お花御殿
都立駒場高校のグランドの対面に香淳皇后(昭和天皇の皇后陛下)が御学問所として使用された建物が保存されています。


首都高大橋ジャンクション

オーパスブリッジ
玉川通りまで下りてくると大橋ジャンクションが見えてきます。玉川通りを横断する歩道橋はオーパスブリッジと名付けられエレベーターで昇降可能です。オーパスはジャンクションの愛称ではなく、再開発地区の名称とのこと。


目黒天空庭園

三軒茶屋方面を望む
オーパスブリッジを渡りクロスエアタワーのエレベータで9階まで行くと、目黒天空庭園の最上部に接続しています。田圃はビオトープの一部で首都高が管理しているようです。首都高のページから一部引用します。
おおはし里の杜
大橋ジャンクションの内側に位置する大橋換気所の屋上につくられた、「自然再生緑地『おおはし里の杜』」。
人と自然とのかかわりが豊かであった時代をイメージし、斜面林や草地、小川のせせらぎなどが再現されています。

おおはし里の杜が目指す自然環境 ~目黒川周辺の原風景を再現~
換気所屋上の特殊な形状(勾配約28%の斜面と上方・下方の平面部で構成)を、昭和初期のかつての目黒川の河岸段丘に見立て、斜面林、草地、湧水とせせらぎ、池、水田を設置しました。
目黒川周辺の原風景に基づく植栽景観を再生するとともに、多様な生き物の生育空間となる環境を創出することを目標として整備しました。




ムシトリナデシコだと思って撮ったのですが違いました。


シロバナキキョウ

ススキ

シロバナハギ

ガマズミの実

ハナカイドウの紅葉



みかん

ハマナスの実
天空庭園の植物だいぶ落ち着いて、秋の風情を見せています。下部ではミカンやブドウその他野菜が栽培されて、ブドウはすでに収穫済みでワインとなります。


稲わら?

トウガラシ
収穫物のようです。ここからオーパスブリッジへ出ることも可能ですが、今回はプリズムタワーのエレベータを使って玉川通りの目黒川沿いに出ます。


目黒区みどりの散歩道 玉電

大橋ジャンクション
玉電は何となく記憶にあるような気がしていましたが、気のせいのようです。未就学児にはこのあたりは遠すぎて。。。大橋図書館を訪れるようになったのは、小学生高学年になった頃かなぁ。山手通りを走っていたトロリーバスはなぜか覚えています。
大橋ジャンクションは甲子園球場のように蔦で覆われることになっていますが、覆われるようになるまではまだまだかかりそうですね。


芸映
かつては赤坂に事務所があったのですが、1998年にこの地に移転したようです。考えてみればこのあたりにポリドールレコードがあったなぁ。


錦鯉のかのう

菅刈公園

菅刈公園のフヨウ

菅刈公園のスダチ
山手通りを横断し川沿いを避けて裏道を歩き昔からある錦鯉の店の前を通り菅刈公園へ。手が届く範囲のスダチがないのはみんな取られちゃうから?


西郷山公園

スクランブルスクエア

旧山手通り
西郷山公園の脇西郷橋からスクランブルスクエアがよく見えます。旧山手通りはお屋敷が多かったのか大きなヒマラヤスギがあったり、街路樹のエンジュも立派です。左側は都立第一商業高校。このあたりから目黒川へ下る「上村坂(かみむらざか)」があり由来は「日露戦争の日本海海戦で第2艦隊を指揮した海軍大将上村彦之丞の屋敷があった」となっているので、第一商業高校の場所に上村邸があったのかなぁと想像していました。調べてみると第一商業高校の場所には古河邸、旧山手通りを挟んだ目黒区側に上村邸があったとのこと。古河邸の場所は地元の農民に請われて西郷家が購入したとなっているので、現在の高級住宅地も農地としてはあまり利用価値がなかったのかもしれません。



エジプト大使館

デンマーク大使館

猿楽塚
旧山手通りは大使館が多く二週間前に紹介したマレーシア大使館も旧山手通り沿いにあります。猿楽塚は古墳時代後期の古墳で、渋谷区に古墳が残っているのは珍しいと思いますが、目黒区との区界であまり開発が進まなかったのかもしれません。


槍ヶ崎

槍ヶ崎からの上り坂
代官山交番から槍ヶ崎交差点までは下り、その先は上り坂と谷のようになっていますが谷ではなく切通しです。私が勝手に代官山山脈と呼んでいる目黒川と渋谷川削り残した台地の縁にあたりますが、槍ヶ崎のあたりは槍のように狭くなっていたので当初トンネルが掘られました。路面電車を通す際トンネルでは賄いきれず切通しにしたのですが、駒沢通り沿いにビルが立ち並び切通しの面影はありません。このウォーキングコースを歩いていると槍ヶ崎交差点へ向かって下り、そこからまた上り坂があるので切通しを実感することが出来ます。ちなみにこの切通しの標高差は5メートルです。


渋谷区立原町公園

目黒区立中目黒一丁目児童遊園
区境の東西に公園がありました。


目黒の新富士(別所坂公園)

別所坂公園の眺め
代官山山脈の尾根道をたどると別所坂公園に到達し、その先は自衛隊の艦艇装備研究所があるので山を下って回り道をしないと先に進むことはできません。
別所坂公園は淀橋台の縁にある眺めの良い公園で、正面に中目黒のアトラスタワー(地上45階建)、右奥に大橋ジャンクションに隣接するクロスエアタワー(地上42階建て)が見えます。ウォーキングマップでは中目黒駅まで行くことになっていますが、この日のウォーキングはこちらで終了。別所坂公園でストレッチをして解散となりました。

この日は久しぶりに6名で反省会。ライオンのビールがおいしく大いに盛り上がりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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文化財めぐり三田・青葉台コース 約6.1km

2020-06-04 13:23:40 | 東京都目黒区、渋谷区

すこやか歩こう会でこのコースを歩くのは二回目になりますが、前回仕事が入ってしまったので私は歩いていません。ブログで掲載しているのは2017年11月の下見になります。このコースは目黒区役所生涯学習課 文化財係が2010年4月25日に実施したコースをトレースしたもので、文化財の特徴・歴史については役所のページで見ることが出来ます。


舟入場のノウゼンカズラ

アメリカデイゴ
中目黒GTに集合し、舟入場へ移動してストレッチをします。中目黒GTで気づいたのは、会員同士がソーシャル・ディスタンスをとることにより、他の通行を邪魔してしまうこと。withコロナの世の中ではこれまで以上に周囲への配慮が必要になります。緊急事態宣言解除後最初のウォーキングは、13名が参加しました。
ノウゼンカズラは咲き始め、アメリカデイゴはあと一週間といったところでしょうか。花が咲いたらみんなで島唄を歌いましょうか。あっ、合唱は禁止だったかな。


田楽橋

トラウマ遊具解除

アジサイ

田道橋
目黒川沿いに川を下ってゆき、区民センターでトイレ休憩。歩き始めてすぐですが、この先トイレが少ないので、まずはトイレ休憩です。


ゴルフ練習場(休業中)

急坂

千代ヶ崎

三田春日神社
ゴルフ練習場は半ば屋外だし三密にも当たらないと思うのですが、休業中でした。スポーツジムのカテゴリなのでしょうか?区民センターから東へ向かうには急坂を登らなければなりません。目黒三田通りは淀橋台という台地の縁を通っています。台地の縁には目黒台という台地が隣接していますが、淀橋台の方がもともと高いうえに、目黒川の浸食により谷になっており、東へ行くにはどこかの急坂を越える必要があるのです。
標高を見てみると淀橋台の縁にある千代ケ崎は30.2mで目黒台の上にある祐天寺は28.2m、目黒川が削った谷にあるふれあい広場は7.1mです。文化財めぐりの千代ヶ崎の説明を見てみましょう。
目黒一丁目、三田三丁目あたりは千代ヶ崎と呼ばれ、景勝地として知られていました。

南北朝時代(1336年から1392年)の頃、南朝の武将新田義興の館がここにありました。義興の側室千代は、義興戦死の知らせを受け嘆き悲しみ、庭の池に身を投げました。千代を哀れんだ人々が池を千代が池と呼び、このあたりを千代ヶ崎と呼んだという言い伝えがあります。


淀橋台の縁は、南北方向に目黒川が削りますが、縁から湧き出る湧水が東西方向に小さな谷を作ってゆきます。縁の残った部分は岬のように突き出てその部分は「崎」と呼ばれます。千代ヶ崎もまた目黒川が作った景勝地なのです。


帝国陸軍境界石
境界石は階段のモルタルに埋もれていますが、盛り土の上には軌道が設けられ三田用水の水車を利用して作られた火薬を保管場所だった自然教育園まで運ぶための軌道だったと考えられています。起動跡は道となり、盛り土に上がるための階段を作る際この境界石を撤去することなく埋め込んでしまったものと思われます。


爺が茶屋
茶屋があった場所は正確にわかっていないようですが、この案内板がある場所は標高20mで淀橋台から10メートル下った場所にあります。茶屋を営むには水が必要で、湧水が容易に手に入るこの場所に茶屋があったものと考えられています。台地の上では水を運ばなければなりませんから。


茶屋坂隧道モニュメント
モニュメントの写真にあるトンネルが撤去されたのはそれほど昔の話ではありませんが、17年前のようです。アメリカ橋から新茶屋坂への道が通されたタイミングだったかな。隧道となっていますが水道橋の下です。急坂だった茶屋坂のバイパスとして切通しを作りなだらかにした新茶屋坂を建設する際、三田用水を維持するための水道橋として昭和5年に建設されました。三田用水は昭和49年に運用が停止され、茶屋坂隧道は平成15年に撤去されました。


研究所裏バス停

艦艇装備研究所入口

かつての入口
次のバス停は「防衛省技術研究所」となっていますが、恵比寿側入り口の看板は「艦艇装備研究所」です。研究所は東向きの傾斜地となっており、この谷を形成したのは渋谷川です。戦後オーストラリア軍がこの場所に駐屯していたという話を聞いたことがありますが、施設のホームページにも沿革などの説明がなくよくわからないなぁと思っていたのですが、目黒区のページから見つけた目黒火薬製造所の歴史を引用します。
歴史を訪ねて 目黒火薬製造所
更新日:2013年10月1日

「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒火薬製造所
「同時二十六日昼、四半時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕の者七十余人といふ」

江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(1863年)9月の項の一節である。ペリーをはじめ諸外国船の来航、尊王攘夷勢力の過激な反幕運動など、幕末の深刻な政情不安は、江戸近郊の平和な農村だった目黒にも及んできた。幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆発の記録にも、その様子がうかがわれる。

幕末に設立
安政4年(1857年)、幕府は、軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水車場を建てる計画を打ち出した。

もちろん、村民らは火薬の爆発を恐れたが、お上(かみ)の言うことには逆らえない。しぶしぶ承知する代わりに、用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を支払うことを幕府に認めさせた。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのである。

明治期に発展
明治維新後、新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所の建設場所を捜していた。そして、白羽の矢が立ったのが、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村である。三田村が2度も火薬製造所に選ばれたのは、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。

明治12年、田畑をつぶして道路を開き、水路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて三田用水に玉川上水をひき入れ、翌年、東西1町16間、南北4町10間、面積2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎えて、明治18年、いよいよ操業を開始。製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われて、生産額もしだいに増加した。

明治26年、海軍省の管理から、陸軍の東京砲兵工廠こうしょうへ移管された。
日清戦争が始まると、軍用火薬の需要が増大したため、目黒火薬製造所は、隣接の土地を買収して建物10棟、機械30台を増設したが、終戦とともに需要が減り、拡張した設備や労働力の整理に苦しむことになる。

そんななかで、日露戦争が勃発。火薬製造は再びブームを迎え、夜を徹して増産につぐ増産が行われた。そして、終戦。目黒火薬製造所は、小銃・山砲・野砲用などの軍用火薬ばかりでなく、鉱山火薬・猟銃用火薬などを一手に引き受けて、独自に発展の道をたどる。
明治時代の二大戦争によって成長した目黒火薬製造所は、明治44年、それまでの水力および蒸気による動力を、渋谷発電所から供給される電力に切り換えるなどの近代化を行った。大正6年、職工数は男女合わせて367人を数えた。当時目黒で100人以上の規模を持つ工場は、日本麦酒のみであった。

再び移転
もともと目黒には産業といえるほどのものはなかったが、それでも明治初期以来、灌漑(かんがい)用の三田用水を利用して精米・製粉をする水車は少なくなかった。水車の数は明治40年には、大崎、目黒を中心に49カ所に上る。日本麦酒や火薬製造所などの大工場も、動力源として、また、生産の過程で、大量の水を必要としたため、三田用水を利用できることを前提に、ここに設立されたわけで、目黒の工業の発展の歴史は、同時にまた、三田用水が農業用水から工業用水に変わってゆく過程でもあった。

そんななかで、火薬製造所と村民の間に、しきりに水争いがくり返されるようになる。三田用水組合文書には、明治24年、目黒村民がこぞって製造所の多量の用水使用を府知事に訴え出た記録が残っている。

しかし、昭和に入って、目黒に人家が増え、商店・工場も建てられると、火薬製造が危険ということで、昭和3年、幕営時代から70年余、三田にあった火薬製造所もついに群馬県岩鼻村へ移転することになる。目黒の工業化の元祖ともいうべき製造所が、他の工場などの進出によって追い出されたわけである。

火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所を経て、現在、防衛省防衛研究所となっている。


目黒区の歴史の中でペリーが関係する事象はあまりないので、よい記事に巡り合いました。


道しるべ

カシワバアジサイ

別所坂公園


目黒新富士
恵比寿から上目黒別所へ向かう道にあった道しるべは、マンション建設中別の場所へ移されていましたが、もとの場所へ戻されました。等価交換でしょうか?
別所坂公園の遊具はまだトラウマ状態です。公園内にある新富士の遺跡は草に覆われてなんだかわからなくなっていました。
淀橋台の縁には多くの富士見の名所がありました。目黒台が淀橋台より2メートル低いこと、目黒川が削り急な崖になっていることなどが西の展望がよく富士見の名所になった理由です。北斎の富嶽三十六景の「下目黒」、広重の「目黒新富士」、「目黒元不二」などの浮世絵が有名なのは、江戸庶民の日帰り観光地としてちょうど良い距離だったためでしょう。


槍ヶ崎

道しるべ

目黒元富士

キングホームズ
槍ヶ崎は淀橋台の縁に突き出した場所の一つで、目黒川が削った西側と渋谷川が削った東側の残った台地が槍の穂先のように細くなっていた場所です。パイパスとして駒沢通りが作られた際細く薄くなっていた台地にトンネルを通しましたが、玉川電鉄の路面電車(のちに東京府へ譲渡)を通すためにトンネルを広げることが出来ず切通しにした場所です。トンネル上を流れていた三田用水は、掛樋をかけて流され、その様子は私の記憶にも残っています。
道標がある道は鎌倉街道で、元富士は丸旦組という富士講が富士塚を作り江戸の観光地になった場所です。富士塚は壊されて上目黒氷川神社へ移され、現在は高級マンションが建っています。


猿楽塚古墳

旧山手通り沿いのカフェ

西郷山公園

菅刈公園
現在新富士から富士山を見ることはできませんが、元富士や西郷山公園からわずかながら富士山を見ることが出来ます。天気の良い日に富士山を探しに歩いてみませんか?


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北部公園コース 約6.0km

2020-05-27 09:44:14 | 東京都目黒区、渋谷区

毎回8名くらいの参加者がありそろそろ増えるかなぁと思っていたこの日は6名と思ったよりも少なかったです。緊急事態宣言が解消されてもwithコロナの世界はbeforeコロナとは同じにはならないのでしょう。すこやか歩こう会や目黒ウォーキング協会にどのような役割が求められるのか、これまでと同じではないことを肝に銘じてしっかりと変化してゆかなければなりません。ウォーキングがお手軽かつ有用な運動であることは変わらないので、皆さんが安心して参加し、かつ楽しいウォーキングを模索し、とりあえずはマスクをして歩きましょう。


5月9日の目黒川

5月23日の目黒川
緑は徐々に濃くなっているのでしょうが、この時期二週間たってもそんなに大きな変化はありませんね。


アジサイ

立入禁止

アカンサス

北野神社
アジサイは集合場所へ向かう途中で撮ったものです。入梅前のアジサイは可憐ですね。目黒川周辺はお花見時期に張られた綱がそのままで憩うことが出来ません。緊急事態が解消されたら変化があるかな。児童遊園のトラウマ遊具も解禁されるでしょうか。北野神社が北野天満宮の流れをくむものと知りました。土の中から出てきた菅原道真公像を祀っているということですが、なんで土の中にそんなものがあるんだ?隅田川から観音像が出てきた浅草寺の方がまだリアリティがあると思います。


菅刈公園日本庭園(閉園)

エンジュ?

ヤマボウシ

スモークツリー

露に濡れた草

ムラサキサギゴケ

芝生養生中

ゼラニウム

スダチ

オリーブ
ドクダミが咲くと花が少なくなると思っていましたが、よく見るといろいろ咲いていますね。二週間くらい前からバラの華やかさを見てしまうと、地味な花が目に入らなくなってくるのかもしれません。


モンスーンカフェ

マレーシア大使館

ゴーンの隠れ家

松見坂
目黒の坂 松見坂
更新日:2014年2月3日

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の坂 松見坂
「昔、今の環六と淡島通りの交差する駒場一丁目付近に、道玄太郎という山賊がいましてね。その道玄がこの付近にあった松の大木に登って、旅人をねらっていたそうです。まあ、そんな話から、渋谷には道玄坂があり、道玄の登った松の大木を道玄物見の松といい、その名から松見坂という坂名がついたと、よく祖父から聞いたものです」と、土地っ子、宗田淳さんはいう。
坂名の由来は、この道玄の話が有力だ。道玄が出没していたのは、今から約450年以上も前のことである。
坂の途中で、自動車修理工場を営んでいる谷口さん兄弟は、「戦前のこの辺は、じめじめとした湿地で、田んぼが広がり、今の山手通りの立体交差付近からは渋谷一帯が眺望できましたよ。昔、追いはぎが出たという話も聞いたことがあります。それに関係があるかどうかわかりませんが、道の向こう側に、松見地蔵という地蔵様がありましたよ」。この松見地蔵は「目黒町誌」によると、「霊験あらたかなる地蔵」ということで、多くの人が参詣に来ていたという。
今、松見坂には、新遠江(しんとおとうみ)橋という橋がある。この橋は、空川にかかっていたものである。もっと以前には、この新道の下にわずかに残っている旧松見坂にあった。この橋は、伊達遠江守が創設したもので、明治に入って、明治天皇行幸に伴い西欧技術を取り入れたドーム型の橋に改築された。大正2年、道路を改修し、現在の松見坂と新遠江(しんとおとうみ)橋となった。
田んぼに囲まれていた松見坂。現在は、住宅や中高層ビルに囲まれている。時代とともに自動車・バス・トラックなどが急速に増加し、その需要に応えるべく幾度となく道路開発工事が行われた。



アカンサス

駒場バラ園

観葉植物



駒場公園(閉館中)

ユキノシタ
いくら調べてもわからない花というのもあり、花の形はドウダンツツジなのですが木ではないし葉っぱも違います。なんでしょうね?


駒場野公園



田植え風景
駒場農学校は札幌農学校と同じように作られた国営大学でした。東京大学農学部、東京教育大学農学部、東京農工大学に分割され駒場野公園のあった場所は東京教育大学で、ケルネル田圃はドイツ人教師ケルネルの実験場でした。いまでも東京教育大学の流れをくむ筑波大付属駒場中高の生徒が田植えを行っていますが、COVID-19の影響かこの日は少人数でした。


ザイフリボク

ツバメオモトに似た花

バラの花壇

イチゴ

アカツメクサ

シロタエギク

ニワゼキショウ
駒場野公園でストレッチをして解散です。よく見るといろいろな花が咲いていましたね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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