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山頭火は母の自殺を背負ってその生涯を放浪に費やした

2005年03月02日 | 詞花日暦
うどん供えて母へ
わたくしもいただきまする
――種田山頭火(俳人)

 四十代半ばの大正十四年に得度した山頭火は、熊本県鹿本郡植木町にある瑞泉寺味取観音の堂守になった。休止していた句作を始め、「けふも托鉢ここもかしこもはなざかり」の明るい句ができた。しかし一年余、「山林独居に堪えかねて、あてもない行脚に上る」。
 後年、自分の過去を振り返り、不幸のいくつかを数え上げた。日記に「最初の不幸は母の自殺」と書いた。山口県防府の造り酒屋だった生家、十一歳の時に井戸に入水した母の姿を忘れない。放浪へ駆り立てられる彼の心には、いつもその姿がうずくまる。
 防府は地下水が豊かで、蛍が多い。水も行乞の山頭火をとらえる。「しづけさは死ぬるばかりの水がながれて」。蛍は亡き母の魂だったともいわれる。自選句集は母の霊前に捧げられている。一方、入水に追いやった父について、「父によう似た声が出てくる旅はかなしい」。父もまた自分の中に生きつづけ、逃れることができない。否応なしに過去を背負う男の漂泊の旅はいつまでもつづく。

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9 コメント

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勝手に決めている (菅原)
2005-03-02 08:58:44
亡き母に供えたのは釜揚げうどんだと勝手に決めています。お湯に浮いた白いうどんを椎茸などの簡素な出し汁にゴマを振って食べる。素材だけの単純な食べ物だけど、なぜかそのシンプルさが心を澄ませてくれます。禅寺を訪ねるとき、よくご馳走になった。
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うどんはシンプルが一番 (yozora)
2005-03-02 13:15:53
夏はざるが良いし冬は釜揚げが美味しいですね。

山頭火の心中判り過ぎるほど察せられて悲しい気分です。
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悲しいですね (菅原)
2005-03-02 22:36:27
何よりも母親の死はこたえますね。しかも父親の存在に似ているものが自分の中に見えているのも悲しいですね。業から逃れ、空にたどり着くための放浪だったのでしょうね。
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自分探しの旅・・・ (みく)
2005-03-03 00:48:05
山頭火の句集に触れたことがありました。

お酒の好きな、お水の好きな山頭火。 字余りとも言えるような自由な書きぶり、自然の中で自分の中から捨て去れないものを抱えながらの行脚。 句を読みながら自分も旅しているような思いにかられました。

時にやさしく、明るくもあり、悲しくもわびしくも・・。

”うどん供えて 母よ わたくしもいただきまする ” そんな何でもないような句の中に彼の思いを少し垣間見る思いです。 この句には”釜揚げうどん”が似合いますね。 思い出させて下さってありがとうございます。 

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こんな実話、聞きました (菅原)
2005-03-03 08:51:10
ある冬、古い友人が山頭火の貧しい家を訪ねた。歓談に時を過ごし、寝る時間になった。たった1枚の布団を客に提供し、山頭火は部屋の片側に座したまま夜を過ごした。傾いた柱と襖の間から吹き込む寒い風から友人を守るためだった。朝になって気付いたと、その友人は話していた。
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来る人を拒まず・・ (みく)
2005-03-03 14:05:37
随時よろしく接待す・・本当に無欲な美しい姿ですね。 こんなこころを少しでも持ち合わせたいものです。 彼の句の中には、風の音や枯葉の音にも” 誰か来るような・・”と言ったたぐいの言葉がいくつも出て来ますよね。 人から離れながらも、人を求めていた寂しがりやの山頭火ではなかったかと思いました。 子どもは何かあると”お母さん!”って言いますよね。 ”お父さん”とはあまり言いませんが母を亡くした山頭火の中にはいつも追い求める母の姿があったのでしょうか。 お泊めした友人の話に似た話ありますよね。 寒い冬の夜、見知らぬ旅人が宿をと尋ねてこられたが、武士と言えども貧しくて火ももてなす事が出来なかった。 しかし旅人の為に家にある大事にしている盆栽の木を燃やして暖をとって頂いた。 この人の事が話しになりのち偉い方になったと言う・・え・・っと、名前が思い出せませんが・・。 
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みく様 (菅原)
2005-03-03 14:22:41
佐野源左衛門常世ですね。栃木県佐野が舞台になった謡曲「鉢の木」でよく知られています。ただし「いざ鎌倉」で駆けつける美談として、戦意高揚のプロパガンダに使われたふしもあります。でも、人とはかくありたいですがね……。
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名前は全く・・ (みく)
2005-03-04 20:59:36
覚えておりませんでした・・! ”菅原さまの辞書には知らないと言うものは無いのだ・・”「鉢の木」・・は覚えていたのです。 兄が六年生の時学芸会で佐野源左衛門・・の役を演じたので。プロバガンダ? 検索、検索・・なるほど・・。 子どもの頃はTVもろくになく・・自然の中で育った時代では色々な人の伝記などを読んだりしながら生き方を学び自分の心のこやしにしたりたものですが、今の子ども達はどうなのでしょうね。 時代とは言え・・時代だからこそ欠けていることがあるとすればそれも大人達の責任なのでしょうけれど・・。 舞台の姿を懐かしく思い出し大変いいお話で有難うございました。
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いえ、たまたま (菅原)
2005-03-04 21:14:53
能や謡曲が好きなだけです。学芸会でね。私の頃は圧倒的に童話ネタでした。今の子どもはマンガとアニメとゲームでしょう。最近、「NARUTO」等を製作している会社の社長に会いました。「ANIME」は今では国際語になっています。世界で一週間に80本くらいが放映されているそうですよ。
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