埼玉県川口市出身で、北朝鮮に拉致された可能性がある「特定失踪者」の藤田 進さんに関し、国連人権理事会の強制的失踪部会が北朝鮮に居場所等の調査を要求したことが分かりました。
強制的失踪部会から藤田さんの弟の隆司さんに送られた書簡によりますと、北朝鮮に対して8月15日付けで、失踪した1976年2月以降の足取りや居場所を調査するよう求めています。北朝鮮から何らかの回答があれば、隆司さんにも伝えられるということです。
強制的失踪部会は今年8月藤田さんのケースで、国際的調査の要請を受理したことを関係者に通知していました。拉致被害者として日本政府に認定されていない特定失踪者に関する申し立ての受理は、今回初めてです。
藤田 進さんは、1976年2月に自宅をでたまま行方不明となり、2004年に脱北者が持っていた写真に写っていた男性が藤田さんであると判明しています。
※(以下は、『週刊現代』2007年4月21日号に掲載された特定失踪者・藤田 進さんについての記事です)
「2003年頃でしょうか。日本に帰ってきてテレビを見たら、北朝鮮拉致にまつわる番組をやっていたのです。そこで流れた藤田 進さんの顔を見て、はっきり思い出したのです。私の目の前で泣き叫んだ男だと。
私は藤田さんの名前も知らず、拉致という言葉さえ知らなかった。しかし、結果として、私は拉致に関与してしまった。その良心の呵責から、自分が知っていることの全てを話そうと決意したのです」
こう語るのは、現在、中国に在住する57歳の朝鮮人の男性である。
1976年2月、当時、東京学芸大学の1年生だった藤田 進さん(当時19歳)が、アルバイトに行くと言って埼玉・川口市内の自宅を出たきり、失踪した。
以後、行方は杳として知れなかったが、2004年7月、北朝鮮から流出した1枚の写真により、藤田さんが北朝鮮に拉致された疑惑が高まった。写真鑑定が行われ、骨格や顔のパーツの位置関係などから、写真の男性と藤田さんは同一人物の可能性が高いという結論が出た。藤田さんは「拉致の確率が高い」特定失踪者1000番台リストに載せられることになった。
その藤田さんを拉致した、と告白するのがこの57歳の男性である。これまでマスコミに語られることのなかった日本人拉致の生々しい真相が、以下の240分に及ぶ男性へのインタビューで明かされる。
【国際指名手配犯に拉致を指示された】
私は都内の大学を卒業し、しばらくして朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の幹部の紹介で東京都足立区にある西新井病院に勤務することになりました。1972年~1973年のことです。
最初は医療現場で働いていましたが、5ヶ月ほど経った頃、当時の西新井病院の金萬有(キム・マンユ)理事長から「ちょっと手伝ってくれ」と言われて、理事長の運転手など、理事長とその家族の手伝いや病院の経営に関する仕事に従事するようになったのです。理事長一家の手伝いをする人間は「幹部」と呼ばれていました。
しかし、「幹部」になると同時に、西新井病院の“裏”の仕事にも、知らず知らずのうちに巻き込まれることになっていったのです。
《北朝鮮系の総合病院として知られる西新井病院は、過去にもたびたび北朝鮮の工作活動の拠点として取り沙汰されてきた。
1953年に病院を創設した金萬有氏(故人)は金日成(キム・イルソン)・金正日(キム・ジョンイル)親子とも面識がある在日朝鮮人の超大物である。しかも金氏は、核など日本の最先端技術を北朝鮮に運ぶ密命を帯びて活動しているとの疑惑が濃厚な、在日科学者からなる「在日本朝鮮人科学技術協会」(科協)の中枢メンバーでもあった。》
病院3階にあった無線室が北朝鮮からの秘密指令を受け取る場所でした。6畳ほどの部屋の壁という壁が通信機器などで埋まっていました。この部屋に入れるのは、鍵を持っている金理事長の甥と数人の幹部だけで、完全な秘密部屋でした。
北朝鮮からの指令は短波放送を通じて流されていました。放送は「1、2、3」などと数字が淡々と読み上げられており、その数字を理事長の甥が解読し、関係各所に連絡するのです。
おそらく、1976年2月、私に下された“任務”も、そのようなルートで北朝鮮から指示されたものだったのでしょう。しかし、私は理事長の甥ではなく“金先生”という男から藤田さん拉致の手伝いを頼まれたんです。“金先生”は名古屋大学医学部を卒業した医者、という触れ込みでしたが、病院に勤めてもおらず、住所もわからない。ただ2週間に一度くらいフラッと病院に来ては幹部と雑談して帰っていく謎の人物でした。
後日、チェ・スンチョルという北朝鮮工作員の写真を見る機会があったのですが、その写真には紛れもなく“金先生”が写っていました。私はあの「西新井事件」を起こした大物工作員の手下として働いていたのです。
《チェ・スンチョルは、日本の機密に関する情報収集などを行っていたとされる北朝鮮工作員。1960年代に都内で失踪した小熊和也さん、1960年に北さん、1960年に北海道で失踪した小住健蔵さんの戸籍を奪い、本人になりすまして生活していたことも確認されている。1985年、警視庁は西新井病院の近くにあるチェ・スンチョルのアジトに踏み込み、乱数表などを押収した(西新井事件)。チェ・スンチョルは逃走し、現在国際指名手配されている。このチェ・スンチョルが病院にもさかんに出入りしていたと、今回、男性は衝撃の証言をしているのである。》
【クスリを打たれ意識を失った藤田さん】
「埼玉に“患者”を連れに行くから、運転手をやってくれ」と、私の事務所に“金先生”から院内(の内線)電話が入ったのは拉致前日のことだったと思います。当時の私は拉致など知りません。総連系の医療機関は埼玉にもたくさんあるから、そのうちのどこかから患者を引き取ってくるんだな、くらいの気持ちで手伝いをしたのです。
2月7日は、冬にしては暖かい日だったと記憶しています。昼過ぎ、総勢4名が病院から車2台で出かけました。私は先頭車両の1号車のハンドルを握りました。車は小豆色のブルーバードで、助手席には“金先生”ことチェ・スンチョルが座りました。2号車は紺のトヨタ車で、二人のスーツの男が乗っていました。彼らはおそらく科協の関係者だと思います。
当時と今では、道がかなり変わっていますが、当時の記憶で説明します。
まずわれわれは環状七号線を西へ進み、鹿浜交差点を右折して都道107号線に入りました。そのすぐ先を左折し、博慈会病院の前を通って新芝川べりから山王橋を渡り、鋳物工場が両サイドに並ぶ通りを直進して、川口本町大通りから産業道路頭車両の1号車のハンドルを握りました。車は小豆色のブルーバードで、助手席には“金先生”ことチェ・スンチョルが座りました。2号車は紺のトヨタ車で、二人のスーツの男が乗っていました。彼らはおそらく科協の関係者だと思います。
当時と今では、道がかなり変わっていますが、当時の記憶で説明します。
まずわれわれは環状七号線を西へ進み、鹿浜交差点を右折して都道107号線に入りました。そのすぐ先を左折し、博慈会病院の前を通って新芝川べりから山王橋を渡り、鋳物工場が両サイドに並ぶ通りを直進して、川口本町大通りから産業道路に入りました。
“金先生”は、「このルートだと派出所は1ヶ所しかないから安全なんだ」と説明していました。どこをどう通るかまで、綿密に計算し尽くしていたわけです。
国鉄(当時)川口駅前を越してしばらく走ると、産業道路沿いにある公園で停まるように言われました。車を降り、公園の反対側に歩いていくと、濃い色のクラウン(3号車)が停まっていて、スーツ姿の男が4人乗っていました。
4人とも朝鮮総連本部関係者で、いま考えると、彼らがこの事件の指揮官でした。“金先生”は、3号車の4人と何か話したあと、私のところに戻ってきて「大宮の氷川神社に行くことになった」と、淡々と私に指示を出しました。
当時は道が空いていたので川口まで30分弱、川口から氷川神社までもそれほど時間はかかりませんでした。大宮氷川神社の隣には大宮公園があるのですが、公園の池の近くで車を停めるよう指示されました。いまでこそ、人も多く明るい公園ですが、当時は木が鬱蒼と茂っていて人影も少なく、寂しい場所でした。
そこには、かなり大きめの乗用車(4号車)が、われわれを待っていました。これが藤田さんを捕まえていた車です。2号車から2人、3号車から4人が降りると、待っていた4号車の後部座席から、大柄な男2人に両側を抱えられて、男性が連れ出されました。これが藤田さんでした。藤田さんは精神病患者などが暴れた際に着させられる拘禁服に似た、ベージュ色の保護服を着ていました。足元もおぼつかないほどフラフラの状態で、意識がないようにも見えました。クスリを打たれているな、とすぐにわかりました。そのまま藤田さんは2号車の後部座席に入れられ、2人の男が両側から挟むようにして座りました。
作業は一瞬でした。3号車の指揮官と思われる男が私のもとにやってきて、「全て完了したので戻って下さい」と日本語で言いました。日本語が使われたのはこのときだけで、あとは全て朝鮮語です。
帰りも私の運転する1号車が先導でした。後ろを走っていた3、4号車はすぐに姿を消し、私たち1、2号車はまっすぐ病院に向かったのですが、私は途中で道に迷ってはぐれ、2号車より20分も遅れて病院に着きました。“金先生”にひどく怒られたのを覚えています。藤田さんを乗せた2号車は、行きと同じ道で病院まで戻ったそうです。
藤田さんの拉致には、川口市の総連系の診療所が大きくかかわっていると思います。金理事長が中枢にいた科協には医師が非常に多いのです。おそらく西新井病院で解読された拉致指令が科協本部にわたり、科協から傘下の診療所に通達されたのでしょう。数年前から藤田さんと川口の診療所の医者が親しくなっていたそうです。医師は何年もかけて藤田さんと親密な関係を築き、拉致当日、食事や催し物に一緒に行こう、と誘ったのでしょう。
【涙をためて「ここはどこですか」】
病院に連れてこられた藤田さんは、そのまま病院2階付近にある「保護室」という名の監禁部屋に入れられました。「保護室」の存在は「幹部」しか知りません。一般職員からはわからないように扉はまるで壁のように加工されていました。「保護室」は畳1枚半の部屋で、鉄格子がしてあり、壁も床も自傷防止用の青緑色のクッションが張ってあります。ちなみに西新井病院に精神科はなく、このような施設は必要ありません。
私は“金先生”から「“患者”に配膳をしてくれ」と頼まれました。翌日の朝から配膳係になって、朝、昼、晩の3回藤田さんに食事を運びました。
拉致の翌日、藤田さんは打たれたクスリがまだ効いているようで、意識が朦朧としており、朝食、昼食とも手付かずでした。藤田さんが打たれたのは自白剤ではないかと思います。ものすごく息が臭くなるのでわかりました。
その日の夜、藤田さんの意識がしっかりしてきました。しかし、現実が受け入れられないのか、ただただ大声で泣き叫んでいました。慟哭という感じでした。「どこへ連れて行くんだ!」「なんだ、これは!」という叫びが、今も強く耳に残っています。
2日目、3日目も会話はなく、食事は摂るようになったのですが、藤田さんは身動きが制限される保護服を着たまま、ただじっとしていました。叫ぶこともなくなりました。
4日目になって、「ここはどこですか」「自分は何でここにいるんですか」と、涙をいっぱいに溜めた脅えきった目で私に聞いてきました。これが、最初で最後の会話です。
4日目の夜、藤田さんはいなくなりました。その後、病院関係者から「彼は同志同胞の繁栄のため、新潟から万景峰号(マンギョンボンごう)で北朝鮮へ渡った」と聞かされました。
強制的失踪部会から藤田さんの弟の隆司さんに送られた書簡によりますと、北朝鮮に対して8月15日付けで、失踪した1976年2月以降の足取りや居場所を調査するよう求めています。北朝鮮から何らかの回答があれば、隆司さんにも伝えられるということです。
強制的失踪部会は今年8月藤田さんのケースで、国際的調査の要請を受理したことを関係者に通知していました。拉致被害者として日本政府に認定されていない特定失踪者に関する申し立ての受理は、今回初めてです。
藤田 進さんは、1976年2月に自宅をでたまま行方不明となり、2004年に脱北者が持っていた写真に写っていた男性が藤田さんであると判明しています。
※(以下は、『週刊現代』2007年4月21日号に掲載された特定失踪者・藤田 進さんについての記事です)
「2003年頃でしょうか。日本に帰ってきてテレビを見たら、北朝鮮拉致にまつわる番組をやっていたのです。そこで流れた藤田 進さんの顔を見て、はっきり思い出したのです。私の目の前で泣き叫んだ男だと。
私は藤田さんの名前も知らず、拉致という言葉さえ知らなかった。しかし、結果として、私は拉致に関与してしまった。その良心の呵責から、自分が知っていることの全てを話そうと決意したのです」
こう語るのは、現在、中国に在住する57歳の朝鮮人の男性である。
1976年2月、当時、東京学芸大学の1年生だった藤田 進さん(当時19歳)が、アルバイトに行くと言って埼玉・川口市内の自宅を出たきり、失踪した。
以後、行方は杳として知れなかったが、2004年7月、北朝鮮から流出した1枚の写真により、藤田さんが北朝鮮に拉致された疑惑が高まった。写真鑑定が行われ、骨格や顔のパーツの位置関係などから、写真の男性と藤田さんは同一人物の可能性が高いという結論が出た。藤田さんは「拉致の確率が高い」特定失踪者1000番台リストに載せられることになった。
その藤田さんを拉致した、と告白するのがこの57歳の男性である。これまでマスコミに語られることのなかった日本人拉致の生々しい真相が、以下の240分に及ぶ男性へのインタビューで明かされる。
【国際指名手配犯に拉致を指示された】
私は都内の大学を卒業し、しばらくして朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)の幹部の紹介で東京都足立区にある西新井病院に勤務することになりました。1972年~1973年のことです。
最初は医療現場で働いていましたが、5ヶ月ほど経った頃、当時の西新井病院の金萬有(キム・マンユ)理事長から「ちょっと手伝ってくれ」と言われて、理事長の運転手など、理事長とその家族の手伝いや病院の経営に関する仕事に従事するようになったのです。理事長一家の手伝いをする人間は「幹部」と呼ばれていました。
しかし、「幹部」になると同時に、西新井病院の“裏”の仕事にも、知らず知らずのうちに巻き込まれることになっていったのです。
《北朝鮮系の総合病院として知られる西新井病院は、過去にもたびたび北朝鮮の工作活動の拠点として取り沙汰されてきた。
1953年に病院を創設した金萬有氏(故人)は金日成(キム・イルソン)・金正日(キム・ジョンイル)親子とも面識がある在日朝鮮人の超大物である。しかも金氏は、核など日本の最先端技術を北朝鮮に運ぶ密命を帯びて活動しているとの疑惑が濃厚な、在日科学者からなる「在日本朝鮮人科学技術協会」(科協)の中枢メンバーでもあった。》
病院3階にあった無線室が北朝鮮からの秘密指令を受け取る場所でした。6畳ほどの部屋の壁という壁が通信機器などで埋まっていました。この部屋に入れるのは、鍵を持っている金理事長の甥と数人の幹部だけで、完全な秘密部屋でした。
北朝鮮からの指令は短波放送を通じて流されていました。放送は「1、2、3」などと数字が淡々と読み上げられており、その数字を理事長の甥が解読し、関係各所に連絡するのです。
おそらく、1976年2月、私に下された“任務”も、そのようなルートで北朝鮮から指示されたものだったのでしょう。しかし、私は理事長の甥ではなく“金先生”という男から藤田さん拉致の手伝いを頼まれたんです。“金先生”は名古屋大学医学部を卒業した医者、という触れ込みでしたが、病院に勤めてもおらず、住所もわからない。ただ2週間に一度くらいフラッと病院に来ては幹部と雑談して帰っていく謎の人物でした。
後日、チェ・スンチョルという北朝鮮工作員の写真を見る機会があったのですが、その写真には紛れもなく“金先生”が写っていました。私はあの「西新井事件」を起こした大物工作員の手下として働いていたのです。
《チェ・スンチョルは、日本の機密に関する情報収集などを行っていたとされる北朝鮮工作員。1960年代に都内で失踪した小熊和也さん、1960年に北さん、1960年に北海道で失踪した小住健蔵さんの戸籍を奪い、本人になりすまして生活していたことも確認されている。1985年、警視庁は西新井病院の近くにあるチェ・スンチョルのアジトに踏み込み、乱数表などを押収した(西新井事件)。チェ・スンチョルは逃走し、現在国際指名手配されている。このチェ・スンチョルが病院にもさかんに出入りしていたと、今回、男性は衝撃の証言をしているのである。》
【クスリを打たれ意識を失った藤田さん】
「埼玉に“患者”を連れに行くから、運転手をやってくれ」と、私の事務所に“金先生”から院内(の内線)電話が入ったのは拉致前日のことだったと思います。当時の私は拉致など知りません。総連系の医療機関は埼玉にもたくさんあるから、そのうちのどこかから患者を引き取ってくるんだな、くらいの気持ちで手伝いをしたのです。
2月7日は、冬にしては暖かい日だったと記憶しています。昼過ぎ、総勢4名が病院から車2台で出かけました。私は先頭車両の1号車のハンドルを握りました。車は小豆色のブルーバードで、助手席には“金先生”ことチェ・スンチョルが座りました。2号車は紺のトヨタ車で、二人のスーツの男が乗っていました。彼らはおそらく科協の関係者だと思います。
当時と今では、道がかなり変わっていますが、当時の記憶で説明します。
まずわれわれは環状七号線を西へ進み、鹿浜交差点を右折して都道107号線に入りました。そのすぐ先を左折し、博慈会病院の前を通って新芝川べりから山王橋を渡り、鋳物工場が両サイドに並ぶ通りを直進して、川口本町大通りから産業道路頭車両の1号車のハンドルを握りました。車は小豆色のブルーバードで、助手席には“金先生”ことチェ・スンチョルが座りました。2号車は紺のトヨタ車で、二人のスーツの男が乗っていました。彼らはおそらく科協の関係者だと思います。
当時と今では、道がかなり変わっていますが、当時の記憶で説明します。
まずわれわれは環状七号線を西へ進み、鹿浜交差点を右折して都道107号線に入りました。そのすぐ先を左折し、博慈会病院の前を通って新芝川べりから山王橋を渡り、鋳物工場が両サイドに並ぶ通りを直進して、川口本町大通りから産業道路に入りました。
“金先生”は、「このルートだと派出所は1ヶ所しかないから安全なんだ」と説明していました。どこをどう通るかまで、綿密に計算し尽くしていたわけです。
国鉄(当時)川口駅前を越してしばらく走ると、産業道路沿いにある公園で停まるように言われました。車を降り、公園の反対側に歩いていくと、濃い色のクラウン(3号車)が停まっていて、スーツ姿の男が4人乗っていました。
4人とも朝鮮総連本部関係者で、いま考えると、彼らがこの事件の指揮官でした。“金先生”は、3号車の4人と何か話したあと、私のところに戻ってきて「大宮の氷川神社に行くことになった」と、淡々と私に指示を出しました。
当時は道が空いていたので川口まで30分弱、川口から氷川神社までもそれほど時間はかかりませんでした。大宮氷川神社の隣には大宮公園があるのですが、公園の池の近くで車を停めるよう指示されました。いまでこそ、人も多く明るい公園ですが、当時は木が鬱蒼と茂っていて人影も少なく、寂しい場所でした。
そこには、かなり大きめの乗用車(4号車)が、われわれを待っていました。これが藤田さんを捕まえていた車です。2号車から2人、3号車から4人が降りると、待っていた4号車の後部座席から、大柄な男2人に両側を抱えられて、男性が連れ出されました。これが藤田さんでした。藤田さんは精神病患者などが暴れた際に着させられる拘禁服に似た、ベージュ色の保護服を着ていました。足元もおぼつかないほどフラフラの状態で、意識がないようにも見えました。クスリを打たれているな、とすぐにわかりました。そのまま藤田さんは2号車の後部座席に入れられ、2人の男が両側から挟むようにして座りました。
作業は一瞬でした。3号車の指揮官と思われる男が私のもとにやってきて、「全て完了したので戻って下さい」と日本語で言いました。日本語が使われたのはこのときだけで、あとは全て朝鮮語です。
帰りも私の運転する1号車が先導でした。後ろを走っていた3、4号車はすぐに姿を消し、私たち1、2号車はまっすぐ病院に向かったのですが、私は途中で道に迷ってはぐれ、2号車より20分も遅れて病院に着きました。“金先生”にひどく怒られたのを覚えています。藤田さんを乗せた2号車は、行きと同じ道で病院まで戻ったそうです。
藤田さんの拉致には、川口市の総連系の診療所が大きくかかわっていると思います。金理事長が中枢にいた科協には医師が非常に多いのです。おそらく西新井病院で解読された拉致指令が科協本部にわたり、科協から傘下の診療所に通達されたのでしょう。数年前から藤田さんと川口の診療所の医者が親しくなっていたそうです。医師は何年もかけて藤田さんと親密な関係を築き、拉致当日、食事や催し物に一緒に行こう、と誘ったのでしょう。
【涙をためて「ここはどこですか」】
病院に連れてこられた藤田さんは、そのまま病院2階付近にある「保護室」という名の監禁部屋に入れられました。「保護室」の存在は「幹部」しか知りません。一般職員からはわからないように扉はまるで壁のように加工されていました。「保護室」は畳1枚半の部屋で、鉄格子がしてあり、壁も床も自傷防止用の青緑色のクッションが張ってあります。ちなみに西新井病院に精神科はなく、このような施設は必要ありません。
私は“金先生”から「“患者”に配膳をしてくれ」と頼まれました。翌日の朝から配膳係になって、朝、昼、晩の3回藤田さんに食事を運びました。
拉致の翌日、藤田さんは打たれたクスリがまだ効いているようで、意識が朦朧としており、朝食、昼食とも手付かずでした。藤田さんが打たれたのは自白剤ではないかと思います。ものすごく息が臭くなるのでわかりました。
その日の夜、藤田さんの意識がしっかりしてきました。しかし、現実が受け入れられないのか、ただただ大声で泣き叫んでいました。慟哭という感じでした。「どこへ連れて行くんだ!」「なんだ、これは!」という叫びが、今も強く耳に残っています。
2日目、3日目も会話はなく、食事は摂るようになったのですが、藤田さんは身動きが制限される保護服を着たまま、ただじっとしていました。叫ぶこともなくなりました。
4日目になって、「ここはどこですか」「自分は何でここにいるんですか」と、涙をいっぱいに溜めた脅えきった目で私に聞いてきました。これが、最初で最後の会話です。
4日目の夜、藤田さんはいなくなりました。その後、病院関係者から「彼は同志同胞の繁栄のため、新潟から万景峰号(マンギョンボンごう)で北朝鮮へ渡った」と聞かされました。