S’PORE papa

シンガポールへ2005年~2010年まで単身赴任・・・ゴルフの回数は、激減・・・競馬、釣り、ガーデニングなど多趣味・・・

「わたしが子どもだったころ」・・・NHKワールド

2007-05-17 14:10:17 | シンガポール
一昨日、飲んで帰って、さあ、寝ようかと思いつつ、なにげにテレビを見ていたら
「わたしが子供だったころ・・・野村克也」が始まった・・・

引き込まれるように、見てしまいました・・・感動です!!!

育ったところは、丹後半島の網野町・・回想では、いつも曇っている土地柄で、暗い雰囲気のところだそうです・・で、根暗になったとか・・・

3歳の時に父親が戦死でお兄さんと3人の母子家庭・・・おまけに小学校の頃には、母親も癌を患い極貧生活へ・・・たいがい寝たきりの母親の風景・・・丹後ちり緬産業で周りは、裕福でしたが、彼の弁当の中身は、芋ツルめしで真っ黒・・・弁当箱を隠して食べたとか・・・

番組は、野村監督のインタヴューと回想シーンを役者が演じるのですが、子役の子が上手い・・・「母ちゃん腹減ったよ~」と何回も繰り返す・・・庭に芋を植えるが、海岸端の貧しい家だから育たない・・・

小学校から新聞配達・アイスキャンディー売りなどで家計を助ける・・その仕事の中に、彼なりの工夫や知恵を搾り出す・・・それがID野球の原点・・

とにかく貧乏から脱したくて、中学校の頃には、同年代の美空ひばりのように、歌手になれると思い込み、発声練習をする。友達に声を潰せば音域が広がると、声を潰したが、騙されたことに気づき、歌手を断念。

こんどは、俳優に憬れて稽古に励むが、自分の顔を認識して断念。

お母さんからは、中学を卒業したら「丁稚奉公やで」と言われていたが、兄貴の援助で高校へ進学できたとか・・・

野球は、海岸端で三角ベースをやっている回想シーンが出ていました・・・折れたバットを修理して使っていましたが、母親から野球なんか飯の足しにもならんと、バットを隠されたり・・・最後まで、野球をやることに反対していたそうです・・・

現在の監督がお墓参りをするシーンが出ていました・・「こっちのお墓が、網野町で一番裕福な家のお墓(確かにりっぱです)、ここが当時、網野町で一番貧乏な家のお墓(現在は、監督がプロ野球選手になった時に改築してあります。)」父親は、35歳で亡くなったそうです・・・

監督が感慨深げに一言「35歳やで~若いな~」
母親は、62歳・・・監督が昭和40年に3冠王を取った3年後に亡くなったそうです

「あんなに俺が野球をすることに反対しとったのにな~・・・人生は、解らんな~母親の一生って苦労するために生まれてきたみたいなもんやったな~・・・」

お墓の前で花を手向けた後に「もう一回、日本一になって、ここに報告に来たいな~楽天じゃ無理かな~・・・逆さに読んだらテンラクだもんな~」

ちゃめっ気がある人柄、根暗と言っていますが、中学、高校の写真は、いつも明るく笑っていました・・・ハングリー精神・・・おん年72歳・・・

こんな人生もあるんですね・・・感動しました・・・何故か泣けました・・・


同番組・・・昨日は、児童文学作家の上條さなえさんでした・・・これも、泣かされた~

彼女も10歳当時、一家離散の憂き目に合い、夜逃げのお父さんとの放浪生活・・・

その当時の回想をドラマ化していましたが、嶋田久作のお父さん役とさなえさん役の子役の演技が上手い!!!

さなえさんの今の講演の模様も少し映ってまいた・・・「教師という職業は、教室の子供達に愛を与える職業です・・・愛を与えられるということは、自分が幸せでなければ与えられません・・・」子供の頃の辛い体験から親の愛、家庭の愛が大事だとの信念からの言葉でした・・・

寝る前に2日続けて泣かされたな~・・・とってもいい番組でした・・・

今のシンガの天気は、