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夢の続き・・・

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風林火山紀行(甲斐路編8)・・・巨星墜つ(信玄公火葬塚)

2010年07月15日 13時22分53秒 | 旅行
気がつけばもう7月も半ばだ。もう夏だ

4月5月に行った山梨・長野の武田史跡巡りもだいぶ昔のようになってしまった。覚えているうちに書いておこう

1968年 武田信玄は、嫡男義信や重臣飯富兵部など多くの犠牲と引き換えに駿河に侵攻し、
掌中に収めた。
その後、信玄も自分の余命と子供たちの行く末を考えていたのだろうか?
天下獲りをリードしている織田信長、徳川家康との対決に向かって行く。

信玄は足利、本願寺、浅井・朝倉・毛利など巧みな外交戦略を駆使して、信長包囲網を敷き、信長の兵を分散させる。1572年足利義昭の信長追討令に応じる形で西上作戦に出る。
甲州県民が438年経った今でも未だに「たら・れば」で夢を見る天下獲りの行軍だ

1572年10月 武田軍は3隊に分け出陣、信州木曾方面から秋山信友が東美濃に攻め込み、
岩村城を落とした
山県昌景の支隊は徳川氏の三河へ向かい、信玄本隊は馬場信春と青崩峠から遠江に攻め込んだ。
家康は10月14日、武田軍と遠江一言坂において戦い敗退。武田軍は更に家康を追い詰め侵攻する。
家康は浜松城に籠城し抵抗するも、信玄はここで時間を掛けたくないので、罠を掛けておびき出す為、浜松城を攻囲せず西上するふりをする。敵に背を見せたのである。徳川は背後を突くチャンスとみて出陣するも、遠江三方ヶ原において進軍をやめ、振り返り待ち構えていた。世に言う三方ヶ原の戦いである。
最強の武田騎馬軍27000、徳川軍11000に襲い掛かる。武田騎馬隊の餌食となり、家康が大敗をした。家康唯一の敗戦で、この敗戦を教訓に、この時に恐怖した自画像を書かせたという。しかし信玄の寿命は尽きようとしていた。
1月には三河に侵攻し、2月には野田城を落とすが、ここで病が重くなり、長篠城で療養するも悪化。引き返すことになるが、信州駒場で巨星は墜ちた。
生きて甲府まで辿り着く事は出来なかった
信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿する事」、勝頼に対しては「信勝(勝頼嫡子)継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残し、重臣の山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らに後事を託し、山県に対しては「源四郎、明日は瀬田に(我が武田の)旗を立てよ」と言い残したという。
真偽の程は別として、信長と対決することなく、寿命が尽きることに対し無念さが伝わってくる
信玄の遺体は、家臣屋右衛門尉昌続の屋敷といわれる場所で火葬された。

(信玄公火葬塚)

奥に進むとお墓があった。

場所は、山梨県甲府市岩窪町500
そもそも信玄の死が秘められていたこともあり、ここの墓は1779年になって甲府代官中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年癸4月12日薨」とあったことから、元通り埋めて幕府に届けて信玄公の墓と確認された。
ここで仮葬され、この3年後恵林寺(甲州市)で盛大に葬儀が行われることになる。

桜の木が植えてあり、3月下旬~4月上旬に来ればかなり綺麗な所だ

信玄の命日は1573年4月12日
この4月12日を中心に山梨県内の各地では、今もその遺徳を偲ぶさまざまな祭りが行われている。
甲府では前の金~日曜に盛大に開催され、土曜日の夜は、県内各地から1,500名の軍勢が甲府駅前広場に集結し、川中島に向け出陣する様子を再現する「信玄公祭り」が行われ、壮大な戦国絵巻を眺めることが出来、これを見ると山梨県民の信玄公への想いの深さを感じる。