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夢の続き・・・

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風林火山紀行(信濃路編11)・・・高遠城址公園

2010年07月27日 16時26分19秒 | 旅行
気がつけば、もう8月が目の前に迫っている。
時間がどんどん過ぎていく。忘れないうちに急がねば

4月下旬 川中島の散策の帰りに、高遠方面に立ち寄った。
高遠城といえば桜の名所で、花見をしたことはないが、多くの人で賑わうのを聞いていた。
とはいえ、さすがに4月下旬では散り桜となり、花見といった光景はなかった。

ここは現在、城址ということなどで天守閣があるわけでないが、その遺構を公園として整備し、多くの人の憩いの場となっている。
(高遠城址公園MAP)



ここ高遠城は、もとは高遠氏の居城であるが、1545年に武田軍が攻め落とし、以後武田氏の拠点となった城だ。
山本勘助や秋山信友に命じて大規模な改築が行われたという。
真偽の程は分からないが、山本勘助が作ったとされる勘助曲輪と呼ばれる
遺構が残っている。
(勘助曲輪)


武田家が滅んだ後は保科氏などが城主となっていることから全てが武田家時代の遺構ではないが、大きな外堀などを見ると城という感じがする

(外堀)




この高遠城城主には、信玄時代、弟の信簾や四男勝頼といった重要な人物を配置していることから、信濃の重要な拠点のひとつとして考えていたことが分かる。

武田勝頼が武田信玄亡き後、信勝の後見役として陣頭指揮をとると、高遠城は弟仁科盛信(信玄五男 母は油川夫人 松姫の兄でもある:1557年生-1582年没)に任せている。

しかし長篠の合戦での大敗を喫し、武田家が衰えると、家臣団の内部崩壊が加速する。
織田・徳川方に内通する家臣が現れ、木曽氏、穴山氏といった親戚からも裏切られるようになる。こうなるともう末期症状だ。1582年衰退していく武田を潰しに、織田信忠率いる5万が高遠城を取り囲む。対する高遠城に籠る兵僅か3000。盛信の指揮の元、徹底抗戦して凄まじい抵抗を示すも玉砕。遠城は陥落した。享年26歳の若さであった。

地元の人に慕われていたらしく、その遺体は、近くの山に葬られた。その名は五郎山。
盛信の幼名を取っている。今も献花が絶えないそうだ。

武田の滅亡前を見ると、盛信がもっとも抵抗らしい抵抗をしている。
盛信の死から9日後、勝頼も自刃。勝頼にとってもっとも信頼できたのは
盛信しかいなかったのかもしれない・・・と思う。

盛信の死から2百年以上経ったのち、時の城主は、仁科盛信の霊を祀り、高遠城の神とする神社を本丸近くに建て、今でも多くの方の参拝を得ている。
(藤原神社、別名盛信神社)


時代が時代なら、仁科盛信は名将であり、名君であったかもしれない。