1573年に信玄がこの世を去ると、武田家滅亡へのカウントダウンのペースが急激に速くなる。
3年間信玄の死を秘めていたようだが、現実近隣諸国にはバレバレだったようだ
信玄は遺言として勝頼に対し、信勝が成人するまでの後見を務めるように述べたと伝えられている。正式な跡継ぎではないということのようで、こういったことも家臣団の忠誠を得られなかった要因なのかもしれない。
それでも勝頼は、死を秘めながらも信玄が落とせなかった堅城・高天神城を陥落させて東遠江をほぼ平定して領土を拡大するなど、世間で言われているような凡将ではない活躍をした。
しかし、やはり、織田・徳川の方が一枚も二枚も上。
長篠の合戦で大敗を喫し、武田四名臣といわれる馬場、山県、内藤をはじめとした優秀な人材を失った。
この中には、真田幸隆の長男の信綱、次男昌輝もいた。関が原で名を馳せた3男真田昌幸の兄といった方が分かりやすいかもしれない。
真田信綱は、1537年真田幸隆の長男として生まれ、幸隆の死後、真田家を相続する。
不明な点が多く、功名話に乏しいものの、信玄の帷幄には常に召集されており、重要な合戦にも参戦している事から、家中の信頼が厚かったようで、武田24将の一人に数えられている。
また、弟昌輝もまた「百足衆」として信玄に常に付き従い、「兵部(昌輝)は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残る優秀な武将であったようだ。
しかし、長篠の合戦でこの兄弟は壮絶な最期を遂げる。
信綱享年38歳 昌輝享年33歳 若すぎる死である。
この信綱・昌輝兄弟は、信綱寺に眠っている。
場所は長野県上田市真田町長8100
失礼だが、随分田舎である
。
しかし、境内は静かで落ち着けるお寺だ
(信綱寺)

このお寺は、長篠の合戦で兄2人を失い、急遽三男の昌幸が真田家の主となったことから、兄を弔う為に、打越寺を改築し、大柏山「信綱寺」と兄の名前の寺に変えて現在のお寺名になっている。
(本堂)

この本堂右手には急勾配な階段があり登っていくと、兄弟と信綱の妻の墓があった
(真田信綱・昌輝・信綱の妻の墓)
中央が信綱、右が昌輝、左が信綱夫人だ。

伺った時は誰も観光客がいなかったが、お寺の方が大変親切で宝物館を見せてくれた。
宝物館では信綱が愛用した鎧胴や長篠の戦いで討死した信綱の首を包んだといわれる血染めの陣羽織、昌幸から信綱寺に宛てられた書状などが展示されていた。
(鎧胴)

特に鎧胴や首級を包んだ血染めの陣羽織は、信綱討ち死で家臣達が、山門の脇にある桜の下に埋葬した。信綱寺となった時にこれを掘り起こし、首級は現在の墓に葬り、宝物であるこれらは、寺で代々大切に保管され、現在の宝物館に展示されている。
この桜は、樹齢400年もあり、「墓前の桜」と言うそうだ。
家臣が主の首を必死に取り返し、ここまで辿り着いたのだろう。
家臣の思いが伝わってくる。この家臣も後を追ってここで自刃したそうだ。
そう思うと、この桜は随分悲しい光景を見てきた桜だと思う。
(墓前の桜)

武田は長篠の合戦で、四名臣だけでなく、真田兄弟のような優秀な家臣を失い、衰退していく。
ただ、長篠の合戦で、この若い兄弟が死ななければ、後の真田昌幸・幸村の関が原、大阪の夏冬の陣の活躍はなかったかもしれないので、この兄弟の死は、武田だけでなく、日本の歴史にとっても、歴史を変える出来事であったと思う
3年間信玄の死を秘めていたようだが、現実近隣諸国にはバレバレだったようだ

信玄は遺言として勝頼に対し、信勝が成人するまでの後見を務めるように述べたと伝えられている。正式な跡継ぎではないということのようで、こういったことも家臣団の忠誠を得られなかった要因なのかもしれない。
それでも勝頼は、死を秘めながらも信玄が落とせなかった堅城・高天神城を陥落させて東遠江をほぼ平定して領土を拡大するなど、世間で言われているような凡将ではない活躍をした。
しかし、やはり、織田・徳川の方が一枚も二枚も上。
長篠の合戦で大敗を喫し、武田四名臣といわれる馬場、山県、内藤をはじめとした優秀な人材を失った。
この中には、真田幸隆の長男の信綱、次男昌輝もいた。関が原で名を馳せた3男真田昌幸の兄といった方が分かりやすいかもしれない。
真田信綱は、1537年真田幸隆の長男として生まれ、幸隆の死後、真田家を相続する。
不明な点が多く、功名話に乏しいものの、信玄の帷幄には常に召集されており、重要な合戦にも参戦している事から、家中の信頼が厚かったようで、武田24将の一人に数えられている。
また、弟昌輝もまた「百足衆」として信玄に常に付き従い、「兵部(昌輝)は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残る優秀な武将であったようだ。
しかし、長篠の合戦でこの兄弟は壮絶な最期を遂げる。
信綱享年38歳 昌輝享年33歳 若すぎる死である。
この信綱・昌輝兄弟は、信綱寺に眠っている。
場所は長野県上田市真田町長8100
失礼だが、随分田舎である

しかし、境内は静かで落ち着けるお寺だ

(信綱寺)

このお寺は、長篠の合戦で兄2人を失い、急遽三男の昌幸が真田家の主となったことから、兄を弔う為に、打越寺を改築し、大柏山「信綱寺」と兄の名前の寺に変えて現在のお寺名になっている。
(本堂)

この本堂右手には急勾配な階段があり登っていくと、兄弟と信綱の妻の墓があった
(真田信綱・昌輝・信綱の妻の墓)
中央が信綱、右が昌輝、左が信綱夫人だ。

伺った時は誰も観光客がいなかったが、お寺の方が大変親切で宝物館を見せてくれた。
宝物館では信綱が愛用した鎧胴や長篠の戦いで討死した信綱の首を包んだといわれる血染めの陣羽織、昌幸から信綱寺に宛てられた書状などが展示されていた。
(鎧胴)

特に鎧胴や首級を包んだ血染めの陣羽織は、信綱討ち死で家臣達が、山門の脇にある桜の下に埋葬した。信綱寺となった時にこれを掘り起こし、首級は現在の墓に葬り、宝物であるこれらは、寺で代々大切に保管され、現在の宝物館に展示されている。
この桜は、樹齢400年もあり、「墓前の桜」と言うそうだ。
家臣が主の首を必死に取り返し、ここまで辿り着いたのだろう。
家臣の思いが伝わってくる。この家臣も後を追ってここで自刃したそうだ。
そう思うと、この桜は随分悲しい光景を見てきた桜だと思う。
(墓前の桜)

武田は長篠の合戦で、四名臣だけでなく、真田兄弟のような優秀な家臣を失い、衰退していく。
ただ、長篠の合戦で、この若い兄弟が死ななければ、後の真田昌幸・幸村の関が原、大阪の夏冬の陣の活躍はなかったかもしれないので、この兄弟の死は、武田だけでなく、日本の歴史にとっても、歴史を変える出来事であったと思う
