信玄家臣団の中で、画家と影武者のキーワードをもつ武将といえば、
武田信廉(1532年生-1582年没)である。武田信虎と大井夫人との間に生まれ、信玄、信繁とは同母弟である。出家して武田逍遥軒信綱と号した。
(武田信廉)
ここ逍遥院は、武田信廉が眠るお寺だ。
場所は甲府市桜井町999
武田信廉が自邸近くに牌所として建て、自作の位牌を生前に作り、収めたと言う。
信廉が処刑された後、このお寺は信廉の菩提寺となったそうだ。
(逍遥院)
信廉は戦国時代の武将でありながら、戦などでは後詰が多く、軍功等の話は少ない。
むしろ武将というより画家としての方が有名な人物だ
国指定の文化財に指定されている貴重な信虎や大井夫人の肖像画は、信廉の作品である。
(信虎像)
(大井夫人像)
信繁が川中島で散ると、信廉が親族衆筆頭として信玄を補佐した。
真偽の程は分からないが、兄の信玄とは顔や体系が似ていた為、影武者を務め、1573年 西上作戦中の信玄が病死すると、死を内外に隠すために信玄に成りすまして軍を甲府へ引き揚げさせた。また、北条氏政が信玄の死去を確かめるため、使者として板部岡江雪斎を甲斐に派遣した際も、影武者としてこれを欺いたという逸話が残っている。
派手な軍功こそないが、実に個性的な人物だ
そんな親族衆筆頭の信廉も、信玄亡き後、勝頼を補佐するも、武田の衰退していく流れを変えることは出来なかった。
武田信廉は、伊那の大島城を守っていたが、1582年、高遠城が落ちると織田軍に
大した抵抗もせず、大島城を放棄して甲斐へ退却する。
勝頼自刃から13日を経た後、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可に捕らえられ、斬首された享年50歳。
優秀な兄 信玄、信繁の弟の割には、実に寂しい末路である。
(武田逍遥軒信綱祠)
左隣にある石祠は信廉嫡子、信澄(祠側面には平太郎信隆と記されています)の祠だ。
生前に作成したと言われる位牌。なくなる3年前に作成したそうだ。
(位牌)
亡くなる3年前に自分の位牌を作っているということは、もはや武田家が衰退し、
滅び行くことを避けることが出来ないと信廉は悟っていたのかもしれない
武田信廉(1532年生-1582年没)である。武田信虎と大井夫人との間に生まれ、信玄、信繁とは同母弟である。出家して武田逍遥軒信綱と号した。
(武田信廉)
ここ逍遥院は、武田信廉が眠るお寺だ。
場所は甲府市桜井町999
武田信廉が自邸近くに牌所として建て、自作の位牌を生前に作り、収めたと言う。
信廉が処刑された後、このお寺は信廉の菩提寺となったそうだ。
(逍遥院)
信廉は戦国時代の武将でありながら、戦などでは後詰が多く、軍功等の話は少ない。
むしろ武将というより画家としての方が有名な人物だ
国指定の文化財に指定されている貴重な信虎や大井夫人の肖像画は、信廉の作品である。
(信虎像)
(大井夫人像)
信繁が川中島で散ると、信廉が親族衆筆頭として信玄を補佐した。
真偽の程は分からないが、兄の信玄とは顔や体系が似ていた為、影武者を務め、1573年 西上作戦中の信玄が病死すると、死を内外に隠すために信玄に成りすまして軍を甲府へ引き揚げさせた。また、北条氏政が信玄の死去を確かめるため、使者として板部岡江雪斎を甲斐に派遣した際も、影武者としてこれを欺いたという逸話が残っている。
派手な軍功こそないが、実に個性的な人物だ
そんな親族衆筆頭の信廉も、信玄亡き後、勝頼を補佐するも、武田の衰退していく流れを変えることは出来なかった。
武田信廉は、伊那の大島城を守っていたが、1582年、高遠城が落ちると織田軍に
大した抵抗もせず、大島城を放棄して甲斐へ退却する。
勝頼自刃から13日を経た後、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可に捕らえられ、斬首された享年50歳。
優秀な兄 信玄、信繁の弟の割には、実に寂しい末路である。
(武田逍遥軒信綱祠)
左隣にある石祠は信廉嫡子、信澄(祠側面には平太郎信隆と記されています)の祠だ。
生前に作成したと言われる位牌。なくなる3年前に作成したそうだ。
(位牌)
亡くなる3年前に自分の位牌を作っているということは、もはや武田家が衰退し、
滅び行くことを避けることが出来ないと信廉は悟っていたのかもしれない