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夢の続き・・・

法政大学ラグビー部・旅行・犬・自然を
こよなく愛し、ささやくブログ

風林火山紀行(信濃路編1)・・・板垣神社

2010年05月02日 20時23分02秒 | 旅行
諏訪を奪い信濃攻略拠点とした武田晴信。
だがあくまで本拠地は甲府。ここ諏訪には1542年、郡代として板垣信方(1489年生-1548年3月23日没)をおいた。
(板垣信方)

(板垣の馬標)

板垣家は、もともと武田家の支族で、代々武田家の重心のお家柄。名門なんです
信方は、信虎に使え、その嫡子晴信の傅役となる。
これだけでもかなり信頼が厚いのがわかる。
板垣信方もまた、幼い晴信に多大な影響を与えた一人であることに間違いはない。
信虎追放のクーデーターを成功させ、諏訪攻略でも活躍し、まさしく片腕として晴信を
支える。
晴信から精神的な面も含めて絶大な信頼があったからこそ、重要拠点の諏訪を任せたのだと思う
晴信は諏訪を得てこれより信濃を北進する。
破竹の勢いで、信濃の小豪族を平定していくが、ここに強敵が現れる。
北信濃の雄 村上義清だ。
村上と武田軍は1948年 上田原において激突する。
(地図)



地の利を良く知る村上軍に翻弄され、武田晴信は痛恨の敗北を喫する
この戦で、板垣信方、そして、板垣と同じく、晴信擁立の功労者で、宿老の甘利虎泰を失う。
板垣は激戦地下之条あたりで討ち死にしたそうな
晴信にとっては悔やんでも悔やみきれない初の敗北だったと思う。
板垣の墓は今、この上田原において、「板垣神社」として祭られている。
現在でも大変のどかな農村の中で、探すのが大変な感じで畑の中に溶け込んでいる。
(こんな感じ)

(鳥居くぐって進むと信方の墓が見えて来た)

晴信を戦国屈指の大名に育てた信方は今ここで眠っている。
信方はタバコが好きだったらしく、お参りに来た多くの武田ファンがタバコのお供え物を
するそうだ
タバコをやめて2年経つ小生も、実は今でも吸いたくなる。実にうらやましい話だ

風林火山紀行(甲斐路編5)・・・東光寺

2010年05月01日 16時21分54秒 | 旅行
この寺には、武田信玄が信濃攻略の最初の拠点となった諏訪の領主諏訪頼重と
信玄の嫡男義信、更には江戸時代徳川綱吉の側用人 柳沢吉保の子2人が眠るお寺だ。
場所は、甲府市東光寺3-7-37。
甲府五山の一つで、 1121年に新羅三郎義光が国家鎮護と仏法繁盛の祈願所として諸堂を再興し、その後荒するも、蘭渓道隆が禅宗寺院として再興し、寺号も東光寺と改める。
武田信玄も保護をしたお寺だ

(薬師堂)




石仏も綺麗だ。


薬師堂は国の重要文化財に指定されている。中には
木造薬師如来坐像を中心に、木造薬師十二神将像がある。



(側用人柳沢吉保の子の墓)


見学していると、お寺の関係者だろうか。お話してくれて、現在のお寺は、当時に比べて
かなり規模が小さくなったようだ。
明治に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐や、戦後の農地解放、更には荒廃時の文化財の流出など
苦難を経て現在に至っている。
お話くださった方 ありがとうございます
さて、義信の件は後日として、まずは諏訪頼重だ。
武田信虎は、信濃攻略の野望を持っていたが失敗。後日信虎三女の禰々を嫁がせ和睦する。
これにより諏訪を落とすことすら叶わなかった。
1541年 武田信玄がクーデターを起し信虎を追放。甲斐の国国主に就任する。
信玄はすかさず信濃攻略を開始。妹の嫁ぎ先の諏訪氏との間に戦闘が再開する。
信玄は、諏訪惣領家を乗っ取る野心を持っていた高遠頼継を巧みに調略して、
攻め込み、瞬く間に諏訪を攻略。諏訪頼重を捕らえ、東光寺に幽閉し、
1542年8月自刃させる。
信虎が果たせなかった諏訪攻略であるが、信玄は僅か2年かからない平定であった。
諏訪頼重 享年26歳。戦国の世の為、あまりに早すぎる死であった。
頼重の墓は、信玄の子義信の墓の傍に眠っている。
なんとも複雑な組み合わせだな
(諏訪頼重の墓 後ろが義信の墓)

義信も後日自刃して果てるので、なんとも2人の無念が今も感じられるような気がするお寺であった。

さて、諏訪頼重死しても武田晴信と諏訪氏とは関係が続く。
諏訪頼重息女諏訪御寮人が信玄の妻となったばかりでなく、生まれた子が諏訪平定策として諏訪氏を再興する。それが諏訪勝頼で、後の武田勝頼だ。

それはともかく信玄は頼重から奪った諏訪を拠点に、信濃攻略を進める。
この時信玄には、既に川中島が見えていたのだろうか