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風林火山紀行(甲斐路編5)・・・東光寺

2010年05月01日 16時21分54秒 | 旅行
この寺には、武田信玄が信濃攻略の最初の拠点となった諏訪の領主諏訪頼重と
信玄の嫡男義信、更には江戸時代徳川綱吉の側用人 柳沢吉保の子2人が眠るお寺だ。
場所は、甲府市東光寺3-7-37。
甲府五山の一つで、 1121年に新羅三郎義光が国家鎮護と仏法繁盛の祈願所として諸堂を再興し、その後荒するも、蘭渓道隆が禅宗寺院として再興し、寺号も東光寺と改める。
武田信玄も保護をしたお寺だ

(薬師堂)




石仏も綺麗だ。


薬師堂は国の重要文化財に指定されている。中には
木造薬師如来坐像を中心に、木造薬師十二神将像がある。



(側用人柳沢吉保の子の墓)


見学していると、お寺の関係者だろうか。お話してくれて、現在のお寺は、当時に比べて
かなり規模が小さくなったようだ。
明治に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐や、戦後の農地解放、更には荒廃時の文化財の流出など
苦難を経て現在に至っている。
お話くださった方 ありがとうございます
さて、義信の件は後日として、まずは諏訪頼重だ。
武田信虎は、信濃攻略の野望を持っていたが失敗。後日信虎三女の禰々を嫁がせ和睦する。
これにより諏訪を落とすことすら叶わなかった。
1541年 武田信玄がクーデターを起し信虎を追放。甲斐の国国主に就任する。
信玄はすかさず信濃攻略を開始。妹の嫁ぎ先の諏訪氏との間に戦闘が再開する。
信玄は、諏訪惣領家を乗っ取る野心を持っていた高遠頼継を巧みに調略して、
攻め込み、瞬く間に諏訪を攻略。諏訪頼重を捕らえ、東光寺に幽閉し、
1542年8月自刃させる。
信虎が果たせなかった諏訪攻略であるが、信玄は僅か2年かからない平定であった。
諏訪頼重 享年26歳。戦国の世の為、あまりに早すぎる死であった。
頼重の墓は、信玄の子義信の墓の傍に眠っている。
なんとも複雑な組み合わせだな
(諏訪頼重の墓 後ろが義信の墓)

義信も後日自刃して果てるので、なんとも2人の無念が今も感じられるような気がするお寺であった。

さて、諏訪頼重死しても武田晴信と諏訪氏とは関係が続く。
諏訪頼重息女諏訪御寮人が信玄の妻となったばかりでなく、生まれた子が諏訪平定策として諏訪氏を再興する。それが諏訪勝頼で、後の武田勝頼だ。

それはともかく信玄は頼重から奪った諏訪を拠点に、信濃攻略を進める。
この時信玄には、既に川中島が見えていたのだろうか



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