4月24日 八幡原古戦場跡を訪ねた。
ここは、1561年 第4回川中島の戦いにおける最大の舞台、激戦となった地だ。
現在の八幡原は、「八幡原古戦場跡」として史跡として扱われ、公園のようにきれいに整備されている。
も植えられていた。
(古戦場の桜は、もう散り桜だ)

よくよく考えれば、今から約450年前に大戦闘が行われて、数千の屍の山が築かれた地獄
のような場所なのに、今や憩いの場に様変わりしている。
「夏草や 兵どもが 夢の跡 」・・・・by松尾芭蕉
この句がピッタリと当てはまる場所だ。
さて、ここ八幡原古戦場跡には、名前の通り八幡様が祭られているが、
2つの八幡神社がある。
無料でガイドしてくれる方がいて、その方の説明だと、少し古くて簡素な感じの八幡神社が、当時の神社らしく、武田信玄が本陣とした場所で、この八幡様のご加護があったから、信玄は勝てたと言ったらしい。
ガイドの方、大変親切に説明して下さりありがとうございました
(当時の八幡神社)

そして、後ろにある八幡神社が、後世に移された神社だそうだ。
(新しい八幡神社)

宿敵上杉謙信は、1561年8月15日、13000の兵を率いて善光寺平に侵攻。そして妻女山に登り陣を敷いた。対する武田信玄も海津城に立て籠もり、20日近い膠着状態となる。
1561年9月9日 ついに武田軍が動いた。
武田軍は、二手に分かれ、本体とは別の別働隊(12000人)が、夜陰
に乗じて妻女山の上杉謙信を急襲し、慌てふためく上杉軍を八幡原に追い込む。八幡原では、信玄率いる本体(8000人)が待ち構え、ここで別働隊と挟み撃ちにして殲滅するという世に名高い「啄木鳥戦法」の作戦行動をとったのだ。
この戦法は、武田四名臣の一人馬場信春が献策したとも、山本勘助の献策したとも言われている。
しかしこの策略は、越後の龍に見抜かれていた。
先に紹介したとおり、妻女山からは海津城の様子が見え、逆に妻女山の様子は、海津城からは限定された場所しか見えないからだ。海津城から戦仕度
のために上がる多めの炊煙が見抜かれた要因だと言われている。武田軍が動くと見抜いた謙信は、妻女山に篝火
を目立つようにして掲げ、妻女山にいると見せかけ、海津城の死角より密かに下山し八幡原を目指す。
(八幡原からみた妻女山)

この決戦の日、ガイドの話によると濃霧が発生していたという。
当然信玄もこの濃霧と夜陰を利用したのであろう。
しかし、この自然現象が味方したのは、裏をかいた謙信であった。見事だ
別働隊は、もぬけの殻となった妻女山を目指している。
片や上杉軍13000は、信玄が待つ僅か8000の本陣に向かっていた。
霧が晴れる朝方(8時頃とのこと)は、武田軍にとって悪夢の光景だったであろう。
作戦が裏目に出て、まさかの上杉の大軍が八幡原に現れ、怒涛の如く攻め込んで来たのだから。
肩透かしを食った武田軍 圧倒的不利の状況であった。
さすが軍神謙信。車懸かりの陣で次から次へと隊を繰り出し、武田軍を攻める。目指すは武田本陣 信玄が首。
しかし、この圧倒的不利の状況で、もう一人の天才信玄もさすがだ。
鶴翼の陣で対抗。混乱するも巧みな采配で懸命に守る。
(武田・上杉陣形)

武田軍の本陣となった八幡神社。ガイドの方の話だと、まさかの事態に備えて土塁を築いていたらしく、その跡が今に残っている。
(本陣の土塁)

この位置は実に平らな地形で、先が良く見える。
ここ本陣から、各隊の様子を見て、信玄は采配を振るっていたのであろう。
(本陣から見える戦場)

2万の兵が殺し合い、6千の戦死者がでたという。一口に6000と言うが、その屍の数はすごかったであろう。
ここの八幡原古戦場に戦没者の首塚がある。
合戦終了後高坂弾正が、武田上杉の区別なく、戦死者を埋葬する塚を設けたそうな。その塚は当時10基そこそこあったらしいが、今に残るのは3基しかないと言う。
ここはそのうちの一つだ。
(首塚)

合戦終了の後、上杉謙信は、越後軍戦死者を弔ってくれたことに対し、深く感謝したという。このことがきっかけで、後の「敵に塩を送る」というエピソードが生まれたという。
いずれにせよ、川中島が壮絶な合戦であったことを今に伝える首塚である。
「別働隊が戻るまでは・・・」
武田軍本体は、この危機的状況の中で、この思いを胸に懸命に本陣を守っていたことであろう。
別働隊は、もぬけの殻と知り、八幡原へ「急げ
」の想いだったろう。
それぞれの想いが飛び交う中、武田軍の、そして信玄の危機的状況は更に続く。。。
ここは、1561年 第4回川中島の戦いにおける最大の舞台、激戦となった地だ。
現在の八幡原は、「八幡原古戦場跡」として史跡として扱われ、公園のようにきれいに整備されている。

(古戦場の桜は、もう散り桜だ)

よくよく考えれば、今から約450年前に大戦闘が行われて、数千の屍の山が築かれた地獄

「夏草や 兵どもが 夢の跡 」・・・・by松尾芭蕉
この句がピッタリと当てはまる場所だ。
さて、ここ八幡原古戦場跡には、名前の通り八幡様が祭られているが、
2つの八幡神社がある。
無料でガイドしてくれる方がいて、その方の説明だと、少し古くて簡素な感じの八幡神社が、当時の神社らしく、武田信玄が本陣とした場所で、この八幡様のご加護があったから、信玄は勝てたと言ったらしい。
ガイドの方、大変親切に説明して下さりありがとうございました

(当時の八幡神社)

そして、後ろにある八幡神社が、後世に移された神社だそうだ。
(新しい八幡神社)

宿敵上杉謙信は、1561年8月15日、13000の兵を率いて善光寺平に侵攻。そして妻女山に登り陣を敷いた。対する武田信玄も海津城に立て籠もり、20日近い膠着状態となる。
1561年9月9日 ついに武田軍が動いた。
武田軍は、二手に分かれ、本体とは別の別働隊(12000人)が、夜陰

この戦法は、武田四名臣の一人馬場信春が献策したとも、山本勘助の献策したとも言われている。
しかしこの策略は、越後の龍に見抜かれていた。
先に紹介したとおり、妻女山からは海津城の様子が見え、逆に妻女山の様子は、海津城からは限定された場所しか見えないからだ。海津城から戦仕度


(八幡原からみた妻女山)

この決戦の日、ガイドの話によると濃霧が発生していたという。
当然信玄もこの濃霧と夜陰を利用したのであろう。
しかし、この自然現象が味方したのは、裏をかいた謙信であった。見事だ
別働隊は、もぬけの殻となった妻女山を目指している。
片や上杉軍13000は、信玄が待つ僅か8000の本陣に向かっていた。
霧が晴れる朝方(8時頃とのこと)は、武田軍にとって悪夢の光景だったであろう。
作戦が裏目に出て、まさかの上杉の大軍が八幡原に現れ、怒涛の如く攻め込んで来たのだから。
肩透かしを食った武田軍 圧倒的不利の状況であった。
さすが軍神謙信。車懸かりの陣で次から次へと隊を繰り出し、武田軍を攻める。目指すは武田本陣 信玄が首。
しかし、この圧倒的不利の状況で、もう一人の天才信玄もさすがだ。
鶴翼の陣で対抗。混乱するも巧みな采配で懸命に守る。
(武田・上杉陣形)

武田軍の本陣となった八幡神社。ガイドの方の話だと、まさかの事態に備えて土塁を築いていたらしく、その跡が今に残っている。
(本陣の土塁)

この位置は実に平らな地形で、先が良く見える。
ここ本陣から、各隊の様子を見て、信玄は采配を振るっていたのであろう。
(本陣から見える戦場)

2万の兵が殺し合い、6千の戦死者がでたという。一口に6000と言うが、その屍の数はすごかったであろう。
ここの八幡原古戦場に戦没者の首塚がある。
合戦終了後高坂弾正が、武田上杉の区別なく、戦死者を埋葬する塚を設けたそうな。その塚は当時10基そこそこあったらしいが、今に残るのは3基しかないと言う。
ここはそのうちの一つだ。
(首塚)

合戦終了の後、上杉謙信は、越後軍戦死者を弔ってくれたことに対し、深く感謝したという。このことがきっかけで、後の「敵に塩を送る」というエピソードが生まれたという。
いずれにせよ、川中島が壮絶な合戦であったことを今に伝える首塚である。
「別働隊が戻るまでは・・・」
武田軍本体は、この危機的状況の中で、この思いを胸に懸命に本陣を守っていたことであろう。
別働隊は、もぬけの殻と知り、八幡原へ「急げ

それぞれの想いが飛び交う中、武田軍の、そして信玄の危機的状況は更に続く。。。
