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風林火山紀行(信濃路編3)・・・海津城と明徳寺

2010年05月10日 19時54分19秒 | 旅行
4月24日 海津城と明徳寺を訪れた。
だいぶ散ったとはいえ、桜が咲いていた。
(海津城内の桜)


この明徳寺と海津城にゆかりのある人物と言えば、武田四名臣の一人高坂弾正昌信(1527年生-1578年6月12日没)である。
四名臣の中で唯一天寿を全うした人物だ。
海津城は、北信濃を押さえる上での重要な拠点であり、
対謙信への防衛拠点そして、第4回川中島の合戦において中心となった城だ。この海津城城主が高坂弾正であり、明徳寺は彼が眠るお寺だ。

(高坂弾正と旗)




高坂弾正は、 16歳の時、信玄の近習小姓に召された。見る見る内に出世し、
侍大将になる。
村上義清を打ち破り、北信濃を得た武田晴信であったが、同時に長尾景虎(上杉謙信)
との対決が決定的となってしまう。村上をはじめ武田に追われた多くの信濃豪族が景虎を頼ったからだ。
晴信は、謙信に備え、川中島に防衛拠点の海津城を築城した。
山本勘助が設計したとも言われている。
築城時期は定かでないが、1559年から1560年ごろに築城されたものと考えられている。
(海津城)


(石垣や堀が美しい。時代が移り、徳川の世となると、海津城は松代城となり、真田信幸の居城となる)



この謙信を意識した重要な防衛拠点を任されるのはエース級の武将でなければなるまい。
それが、智勇兼備の将 高坂弾正だ。晴信から抜群の信頼を得ていたことが分かる。
高坂弾正は、川中島の合戦時だけでなく、代がかわり勝頼の代になるまで
上杉勢に備え北信濃を固めていた。越後の龍 軍神とも言われる謙信を任されるのだから
並大抵の武将ではない。

そんな高坂弾正も、勝頼が1575年長篠の合戦で大敗北を喫すると、衰退に向う武田家を必死に立て直すべく奔走する。
しかし病には勝てず、 1578年 武田家を安じながらこの世を去る。
高坂が去って4年後武田家は滅亡する。彼はおそらくこうなることがはっきり見えていたの
かもしれない。

彼は、今、明徳寺に眠っている。桜が美しく、そして静かでとても落ち着いたお寺であった。
場所は、長野県長野市松代町豊栄2833




(明徳寺境内からの桜 実に美しかった)


本堂の右側に、高坂弾正のお墓がある。
(高坂弾正の墓)


余談ではあるが、この寺は高坂弾正以外にも有名な方が眠っていた。

「硫黄島からの手紙」の主人公、栗林忠道大将である。
昭和19年 敗色濃厚になりつつある日本。栗原中将(当時)は、小笠原方面軍最高指揮官に任ぜられ、硫黄島に赴任した。
同20年2月 米軍75000人に対し、23000名で守備。
優れた采配をし、後に敵に名将と讃えられる戦をするも玉砕。
硫黄島には今も激戦跡が残り、戦争の悲劇を今に伝えている。

栗原中将は、玉砕を目の前にして、大本営に決別の電報と、以下の辞世の歌を送る。
「国のため重きつとめを果たしえて矢弾(やたま)尽き果て散るぞ悲しき」
なんと悲しき歌であろうか。
栗原大将 安らかにお眠り下さい。
(栗原大将の墓)