2010年4月24日
妻女山
に登った。
長野ICから国道403号を西に進むも、妻女山入口が分からず、少し苦労した。
入口から高速道路の下をくぐって途中まで
で行き、展望台駐車場で降りる。
とうとうここまで来た
川中島の舞台に小生も足を踏み入れた。感激じゃ
!!
そう ここは1561年(永禄4年)川中島の大激戦が行われた舞台の一つで
敵将上杉謙信と上杉軍総勢13000人が本陣とした場所だ。
(八幡原から見た妻女山:写真中央の低い山が妻女山)

1553年より5度にわたって勃発した川中島の合戦であるが、武田晴信は極力合戦を避け、
本格戦闘はこの第4回川中島の合戦になる。
武田軍の北信濃侵攻とともに、信濃緒豪族は、上杉謙信を頼り、また謙信自身が治める領国越後とも隣接をするようになる。更に海津城といった拠点を築かれ、これは、上杉謙信にとってももはや看過できない状態となった。
また、関東管領になり、同じく敵対していた北条氏康を討伐すべく関東出兵するも
背後となる信濃は叩いておく必要があった。
更にはもう一つ。善光寺商業圏である。この地は、地元の人に聞くと大変肥沃の土地の上、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって、大変賑やかな土地の為、有力な経済圏を形成していた。
ある意味、この商業圏の争奪戦といった経済戦争の要素も含まれていた。
とにかく、上杉謙信は、川中島に侵攻したが、高坂弾正が守備する海津城は囲まず、妻女山に登り、本陣をおく。
対する信玄も2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。
両者睨みあい、戦いの幕が開く。
その後武田方は、海津城に入る。
謙信 茶臼山・海津城を見ながら何を思ったのか??
さて、妻女山を登り始めるとすぐ謙信が槍で地面を突いて泉ができたという伝説をもつ「謙信の槍尻之泉(やりじりのいずみ)」があった。
(槍尻之泉)

今でも水が出ている・・・
ここから更に車で進むと川中島が一望できる展望台がある。
まるでここが上杉本陣ではと思ってしまうような整備がされているがそうではない。
しかし茶臼山、八幡原、海津城周辺などが一望でき、上杉軍・武田軍の動きを示す地図もあり目を閉じると情景が目に浮かぶ。
(展望台の様子)


(展望台から見た八幡原:写真中央の森のような所)

(展望台から見た海津城:写真中央部あたり)

実際にこの展望台に立つとよく分かるのだが、下界が一望でき、武田方(海津城)の動きが見えるのに対し、海津城からここ妻女山が見える場所は限定されている。
なるほど さすが謙信じゃ!! やるのう!!と思わず感心した。
死角を上手く使って下山したのが分かる。
(両軍の動き)

さて、展望台から上への本陣までは車では行けないので徒歩になる。
道は舗装されていない。
途中、山の中を歩いていると、何かに見られているような感覚がした。
じっと止まって振り返り周りを見ると、何かが動く。よく見てみると、
なんとカモシカじゃ!!

「ワシの背後をとるとは天晴れな奴じゃ!!」
「愛い奴じゃ!!近こう寄れ 褒美(持っていた菓子)をつかわすぞ」と
声をかけたが、速攻で逃げていった。
その時小生は「勝った!!」と思った。(結構焦ったが・・・
)
さて、展望台から10分ほど歩いただろうか?
かなりきつい登りだ。日ごろの運動不足が身にしみる
ようやくついた本陣。ここは古墳でもある。
苦労して登った割には標識の棒が立っていただけで何もない。
実に寂しい。
(上杉本陣跡)

謙信と信玄。二人の天才。
今でこそこんな寂しい本陣跡ではあるが、謙信は、信玄と紛れもなくこの場所(本陣)から我々が想像できないような、天才同士の駆け引きを繰り広げた。
その精神的緊張たるや、ものすごいものがあったことだろう。
それを感じただけでも、この場所に来た甲斐があった。
妻女山は、今も上杉謙信の気配が残っている所だ。
決戦の時は近い。

妻女山

長野ICから国道403号を西に進むも、妻女山入口が分からず、少し苦労した。
入口から高速道路の下をくぐって途中まで

とうとうここまで来た

川中島の舞台に小生も足を踏み入れた。感激じゃ


そう ここは1561年(永禄4年)川中島の大激戦が行われた舞台の一つで
敵将上杉謙信と上杉軍総勢13000人が本陣とした場所だ。
(八幡原から見た妻女山:写真中央の低い山が妻女山)

1553年より5度にわたって勃発した川中島の合戦であるが、武田晴信は極力合戦を避け、
本格戦闘はこの第4回川中島の合戦になる。
武田軍の北信濃侵攻とともに、信濃緒豪族は、上杉謙信を頼り、また謙信自身が治める領国越後とも隣接をするようになる。更に海津城といった拠点を築かれ、これは、上杉謙信にとってももはや看過できない状態となった。
また、関東管領になり、同じく敵対していた北条氏康を討伐すべく関東出兵するも
背後となる信濃は叩いておく必要があった。
更にはもう一つ。善光寺商業圏である。この地は、地元の人に聞くと大変肥沃の土地の上、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって、大変賑やかな土地の為、有力な経済圏を形成していた。
ある意味、この商業圏の争奪戦といった経済戦争の要素も含まれていた。
とにかく、上杉謙信は、川中島に侵攻したが、高坂弾正が守備する海津城は囲まず、妻女山に登り、本陣をおく。
対する信玄も2万を率いて善光寺平西方の茶臼山に陣取って上杉軍と対峙した。
両者睨みあい、戦いの幕が開く。
その後武田方は、海津城に入る。
謙信 茶臼山・海津城を見ながら何を思ったのか??
さて、妻女山を登り始めるとすぐ謙信が槍で地面を突いて泉ができたという伝説をもつ「謙信の槍尻之泉(やりじりのいずみ)」があった。
(槍尻之泉)

今でも水が出ている・・・
ここから更に車で進むと川中島が一望できる展望台がある。
まるでここが上杉本陣ではと思ってしまうような整備がされているがそうではない。
しかし茶臼山、八幡原、海津城周辺などが一望でき、上杉軍・武田軍の動きを示す地図もあり目を閉じると情景が目に浮かぶ。
(展望台の様子)


(展望台から見た八幡原:写真中央の森のような所)

(展望台から見た海津城:写真中央部あたり)

実際にこの展望台に立つとよく分かるのだが、下界が一望でき、武田方(海津城)の動きが見えるのに対し、海津城からここ妻女山が見える場所は限定されている。
なるほど さすが謙信じゃ!! やるのう!!と思わず感心した。
死角を上手く使って下山したのが分かる。
(両軍の動き)

さて、展望台から上への本陣までは車では行けないので徒歩になる。
道は舗装されていない。
途中、山の中を歩いていると、何かに見られているような感覚がした。
じっと止まって振り返り周りを見ると、何かが動く。よく見てみると、
なんとカモシカじゃ!!

「ワシの背後をとるとは天晴れな奴じゃ!!」
「愛い奴じゃ!!近こう寄れ 褒美(持っていた菓子)をつかわすぞ」と
声をかけたが、速攻で逃げていった。
その時小生は「勝った!!」と思った。(結構焦ったが・・・

さて、展望台から10分ほど歩いただろうか?
かなりきつい登りだ。日ごろの運動不足が身にしみる

ようやくついた本陣。ここは古墳でもある。
苦労して登った割には標識の棒が立っていただけで何もない。
実に寂しい。
(上杉本陣跡)

謙信と信玄。二人の天才。
今でこそこんな寂しい本陣跡ではあるが、謙信は、信玄と紛れもなくこの場所(本陣)から我々が想像できないような、天才同士の駆け引きを繰り広げた。
その精神的緊張たるや、ものすごいものがあったことだろう。
それを感じただけでも、この場所に来た甲斐があった。
妻女山は、今も上杉謙信の気配が残っている所だ。
決戦の時は近い。