4月24日
八幡原古戦場の近くで、川中島の大激戦にかかわりのある典厩寺というお寺を訪ねた。
場所は、長野市篠ノ井杵淵1000番地
ここは武田信玄が弟、武田典厩信繁(1525年生-1561年10月18日没)が眠るお寺だ。
小生が最も歴史上尊敬する人物の一人である。
(典厩寺)

(武田信繁)

(武田信繁馬印)

信繁は、武田信虎と大井夫人の間に生まれ、信玄とは同母弟である。幼少期から文武に秀で、父信虎に寵愛された。信虎は嫡男である晴信(後の信玄)を廃して信繁に家督を譲ろうとしていたと言われている。
しかし信繁は、身をわきまえ、兄晴信を立てた。そして信虎追放後は、兄に
忠義を尽くし、軍事・政治で活躍し、信望厚く、武田の副大将として
信玄を大いに補佐した。
後に、江戸幕府の治世の上で、武士の鏡として扱われたのがこの信繁だ。
儒学者である室鳩巣は「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛している(『駿台雑話』)
また、豊臣秀吉の弟の、賢弟秀長は、この信繁を手本に兄に使えたという。
更には、戦国最後の華、大阪夏冬の陣で活躍した真田幸村の名は、真田信繁といい、
幸村の父昌幸が尊敬した武田信繁より、優れた弟になってほしいとの願いから名前をもらってつけたと言われる程の名将だ。
信繁は、第4回の川中島の大激戦において、武田の前備えとして、信玄本陣を守備していた。
啄木鳥戦法が読まれ、突然上杉軍13000が現れ、武田本陣を急襲。武田軍大混乱となり、
大ピンチとなっていた。
武田本体の想いは、「妻女山に向かった別働隊が戻るまでなんとか持ち堪える。」「別働隊が戻った時が反撃の時であり、勝利の時だ」という感じだっただろう。
上杉軍は車懸の陣で次々と、信繁隊に襲い掛かる。
信繁は、この大ピンチに、勇猛果敢に立ち向かい、武田の陣形が総崩れとならないよう、必死に支え続けた。
信玄も弟信繁が気がかりで援軍を送ろうとするも、「援軍無用、策構すべし」といって、自分が捨て駒となって持ち堪えている間、建て直す策を考えてくれといって拒否。
家臣の一人に母衣と自らの髪の毛を託し嫡子・信豊に届けたとされ、自らが捨石となる覚悟を決め、壮絶な討ち死にを遂げる。
なんと泣ける話じゃ



典厩寺には、この悲劇の武将武田信繁の遺品やお墓などがある。
典厩寺は、当初鶴巣寺と号するお寺だった。
信繁の本陣となり、この付近で討死したことから、信玄は遺骸をこの寺に埋葬したという。
合戦から60年後の1621年に松代藩主(海津城主)の真田信之が武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め、信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔った。
典厩寺に入ると、左手に閻魔堂がある。中にある閻魔大王像は日本一の大きいのだそうだ。
実に迫力がある。
(閻魔大王像)

更に奥に進むと「本堂」と左手に「首清め井戸」の井戸がある。
(本堂)

(首清め井戸)

信繁討ち死に後、信繁は上杉軍に首をとられるも、部下が取り戻し、ここの井戸で洗い清めたという。何にせよ、首が戻ってよかった
信玄は、この首を見て号泣したという。
そして井戸の傍に面白い石があったので、載せておく。
(ボケ防止の石:将来に備えていっぱい触っておいた)

山門を入って右手には宝物館があり、信繁の遺品が展示されている。
(信繁の兜)

(信繁の槍)

(信繁愛用鉄扇)

(信繁愛用馬具)

さらに山門より正面奥に信繁の墓がある
(武田信繁の墓)

武田の副大将ここに眠る。
武田軍は、強敵上杉軍を退け、この地を防衛する。
しかし、この地を得た代わりに、信繁を失ったことは、痛恨の極みであったろう。
仲の良い弟。最も信頼でき、頼りにもしていた弟。
この弟を失った大きさは、後の武田家の将来を考えると、川中島の地よりも遥かに大きい気がする
快川紹喜曰く「典厩公の戦死は、惜しみても尚惜しむべし。蒼天」と言っている。
信繁の人徳含め、存在の大きさを示した言葉だと思う。
享年37歳。あまりに短すぎる生涯。信玄の補佐のため目立たないが、信玄にならぶ才能を持っていたからこそ、信虎追放後の信玄の快進撃があったのだと思う。
改めて、時代を超えても素晴らしい武将だと敬意を感じる

場所は、長野市篠ノ井杵淵1000番地
ここは武田信玄が弟、武田典厩信繁(1525年生-1561年10月18日没)が眠るお寺だ。
小生が最も歴史上尊敬する人物の一人である。
(典厩寺)

(武田信繁)

(武田信繁馬印)

信繁は、武田信虎と大井夫人の間に生まれ、信玄とは同母弟である。幼少期から文武に秀で、父信虎に寵愛された。信虎は嫡男である晴信(後の信玄)を廃して信繁に家督を譲ろうとしていたと言われている。
しかし信繁は、身をわきまえ、兄晴信を立てた。そして信虎追放後は、兄に
忠義を尽くし、軍事・政治で活躍し、信望厚く、武田の副大将として
信玄を大いに補佐した。
後に、江戸幕府の治世の上で、武士の鏡として扱われたのがこの信繁だ。
儒学者である室鳩巣は「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄公の弟、古典厩信繁公なり」と賞賛している(『駿台雑話』)
また、豊臣秀吉の弟の、賢弟秀長は、この信繁を手本に兄に使えたという。
更には、戦国最後の華、大阪夏冬の陣で活躍した真田幸村の名は、真田信繁といい、
幸村の父昌幸が尊敬した武田信繁より、優れた弟になってほしいとの願いから名前をもらってつけたと言われる程の名将だ。
信繁は、第4回の川中島の大激戦において、武田の前備えとして、信玄本陣を守備していた。
啄木鳥戦法が読まれ、突然上杉軍13000が現れ、武田本陣を急襲。武田軍大混乱となり、
大ピンチとなっていた。
武田本体の想いは、「妻女山に向かった別働隊が戻るまでなんとか持ち堪える。」「別働隊が戻った時が反撃の時であり、勝利の時だ」という感じだっただろう。
上杉軍は車懸の陣で次々と、信繁隊に襲い掛かる。
信繁は、この大ピンチに、勇猛果敢に立ち向かい、武田の陣形が総崩れとならないよう、必死に支え続けた。
信玄も弟信繁が気がかりで援軍を送ろうとするも、「援軍無用、策構すべし」といって、自分が捨て駒となって持ち堪えている間、建て直す策を考えてくれといって拒否。
家臣の一人に母衣と自らの髪の毛を託し嫡子・信豊に届けたとされ、自らが捨石となる覚悟を決め、壮絶な討ち死にを遂げる。
なんと泣ける話じゃ




典厩寺には、この悲劇の武将武田信繁の遺品やお墓などがある。
典厩寺は、当初鶴巣寺と号するお寺だった。
信繁の本陣となり、この付近で討死したことから、信玄は遺骸をこの寺に埋葬したという。
合戦から60年後の1621年に松代藩主(海津城主)の真田信之が武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改め、信繁の菩提と武田・上杉両軍の戦死者を弔った。
典厩寺に入ると、左手に閻魔堂がある。中にある閻魔大王像は日本一の大きいのだそうだ。
実に迫力がある。
(閻魔大王像)

更に奥に進むと「本堂」と左手に「首清め井戸」の井戸がある。
(本堂)

(首清め井戸)

信繁討ち死に後、信繁は上杉軍に首をとられるも、部下が取り戻し、ここの井戸で洗い清めたという。何にせよ、首が戻ってよかった

信玄は、この首を見て号泣したという。
そして井戸の傍に面白い石があったので、載せておく。
(ボケ防止の石:将来に備えていっぱい触っておいた)

山門を入って右手には宝物館があり、信繁の遺品が展示されている。
(信繁の兜)

(信繁の槍)

(信繁愛用鉄扇)

(信繁愛用馬具)

さらに山門より正面奥に信繁の墓がある
(武田信繁の墓)

武田の副大将ここに眠る。
武田軍は、強敵上杉軍を退け、この地を防衛する。
しかし、この地を得た代わりに、信繁を失ったことは、痛恨の極みであったろう。
仲の良い弟。最も信頼でき、頼りにもしていた弟。
この弟を失った大きさは、後の武田家の将来を考えると、川中島の地よりも遥かに大きい気がする

快川紹喜曰く「典厩公の戦死は、惜しみても尚惜しむべし。蒼天」と言っている。
信繁の人徳含め、存在の大きさを示した言葉だと思う。
享年37歳。あまりに短すぎる生涯。信玄の補佐のため目立たないが、信玄にならぶ才能を持っていたからこそ、信虎追放後の信玄の快進撃があったのだと思う。
改めて、時代を超えても素晴らしい武将だと敬意を感じる
