植物という存在
今日の朝日新聞「耕論」のタイトルである。3人の方の談話が載っていた。
わたしは、大学4年になるとき、植物をあつかう研究室を卒論の場として選んだ。以来ほぼ70年間植物と身近に付き合ってきた。
植物が好きである。アスファルトの割れ目に生えているのを見ると、頑張れと言いたくなる。
3人の論者は、わたしより30~50歳若い。こんな若い人たちが、植物のことを論じるのを見ると嬉しくなってしまう。皆さんいいことをおっしゃっている。
静岡大学農学部教授の稲垣栄洋さんは、雑草について述べている。
「雑草とは人間が作り出した環境に自然と生えている植物の総称」と定義している。うまい言い方だ。
人の世話にはならず、生えている環境では何が起こるかわからないが、種を残すという最終目標にはぶれがない。逆境にあっても「一番大切なことを見失わない生き方」が雑草魂といわれる所以で、こうした生き方や戦略が人間の参考になることもあるのではないかと、稲垣さんはいう。
わたしは、畑仕事で雑草をむしりながら、時々「ごめんね」とあやまっていた。
香川大学教育学部准教授の河合史子さんは、植物と人間との共生関係の中で、植物をどう見るかについて話している。大変示唆に富んだ内容で、感心した。
河合さんは、植物と人間とは、特に作物と人間との間で見られるように、持ちつ持たれつの共進化を遂げてきたことを指摘し、20世紀後半に入って作物の遺伝的画一化が進行しつつあることについて、多様性は大切であるが、多様性自体を目的化するのではなく、人間と植物の関係を見直し、その結果として多様性が生まれると考えるべきだという。
そして、役に立つから守るのではなく、互いの存在を喜び、楽しめる関係を育むのが大切で、それは人間同士の関係にも当てはまるのではないかという。
SF作家の津久井五月さんは、人間はホモサピエンスだけの観点で世界を作り上げようとしているが、「それでよいのか。可能なのか。」と問いを発する。
生態系という言葉を無条件で素晴らしいと感じるかもしれないが、飼いならされていない「生きた植物」の力が組み込まれた「生態系のダイナミズム」に人間が存在しているということへの恐れと自覚が必要だと、津久井さんは主張する。
津久井さんは、森林が人間の深層心理に与える影響を題材にした『コルヌトピア』というSF小説を発表している。早速Kindle版を購入した。いずれこのブログで紹介したい。
地球上の生命史において、植物は動物に先駆けて地上に進出した。現在に至る生態系の先導者である。「植物という存在」の中にわれわれは包摂されている。作物栽培や造林は、植物に対するささやかな恩返しだというべきかも知れない。植物に対して謙虚でありたい。
頑張れ!
STOP WAR!
「タネを残さないで犬・猫を代わりに可愛がる」についてです。
>「タネを残すという最終目標にはブレがない」とここで言われています。私は近ごろ疑問... への返信
生物にとっての共通の目標は種の存続だと思います。人間はその目標を見失っているかもしれませんね。
天野さん
何気なく見逃す植物の生きざまに、生命の原点のようなものがあるかもしれませんね。