戦略読書
三谷宏治
ダイヤモンド社
そういや僕もこんな感じで本を選んで読んでいたのだが、最近すっかり失念していた。久々にこの感じを思い出した次第である。
学生のころ、社会人も20代のころは、間違いなく年間100冊は読んでいた。この100冊の中身は小説、サイエンスもの、当世を語る新書から美術解説書までいろいろバラエティに富んでいたが、人文系、社会系、科学系、サブカル系と意識して散らしていた。
もっとも本書と違って僕の場合、いわゆるビジネス書には長いこと近づかなかった。敬遠していたのである。だから、本書で推奨しているようなポートフォリオで本を読んできたわけではない。
しかし、いつ頃からかサイエンスものや小説の類がぐっと減ってしまい、美術系への関心も薄くなってきてしまった。このブログも初めて7年くらい経っているはずなのだが、当初のころにくらべてバラエティの幅が狭まってきているような気がする。
そして気がつくと本を読むペースが大変遅くなっていた。決して早読みでもなかったのだが、年間100冊のペースはとてもとても無理である。集中力が続かないのだ。10分か15分読んでいると、もう休憩したくなる。好きで読んでいるのか何かの義務感に駆られて読んでいるのかよくわからなくなってくる。
しかも会社勤めの人生も20年経て何をとちくるったのか、ここ1年ほど急にビジネス書に手を出してしまうようになった。カーネギーのような古典から、いくつかのフレームワーク本、管理職の心得本みたいなものまで手にとる。「他人と同じ自分にならなくては」というへんなコンプレックスが生じたということである。もちろん読書は遅々して進まない。しかも頭に入っているのか血肉になっているのか、まったく自信がない。
あきらかにメンタルが空回りしているというか、スランプであると言えよう。当ブログの更新がとまってしまったのもそこに理由がある。
もちろん、これは読書に限らず、要は人生としてのちょっとした踊り場にさしかかっているということなんだろうけれど。とは言え、読書は僕の中で間違いなく喜びの時間の一つであったはずなので、これは由々しきことであった。
たまたま本書の紹介記事を読んで、ピンとくるものがあり、発売前からAmazonで予約をしてしまった。手元に届いたのが今週初め。この分厚さにもかかわらず、平日の2日で完読してしまった。読みやすい。頭に入る。イメージがわく。この感じはかなり久しぶりである。憑き物が落ちたかのようだ。
これはまさに僕がかつて「楽しんでいた」読書の姿だった。
そう。本書の帯にもあるように僕は意識して「みんなと同じ本を読んではいけない」と思ってきていたし、「私たちは読んだ本でできている」と確信して、“みんながあちらを行くなら僕はこちらを行こう”みたいな精神で、したがって教養と多様性を信じて様々なジャンルの本を読んでいた。その過程の中で、司馬遼太郎にはまっていた時期もあれば、興味がわいて日本人論を追いかけていた時期もあれば、ミステリー系ばかりだった時期もあった。
そういうことをすっかり忘れていた。
読書は自分にとってエンターテイメントであり、オフのものであり、知的好奇心を満たすものであったはずなのに、いつのまにやら義務感というか自己模倣、自縄自縛に陥っていたようである。
というわけで、本書は初心を思い出すことができた。ありがたいことである(ビジネス書だけはどうしたもんか当面の課題。読んでて苦痛感がどうしても抜けないんだよな)。
ところで、僕の本の読み方は、基本的に1冊ずつの熟読であった。斜め読みとかつまみ食いではない。また、同時に何冊の本を読むわけでもない。つまり、もっとも古典的かつ基本的かつシロウト的な読み方である。最近の読書指南の本を覗くと、「本は一度に10冊読め」とか「まずは目次を俯瞰して全体をイメージしてから読め」とかいろいろある。本書でも粗読みから重読まで4通りの読み方を紹介している。つまみ食い的な読み方だけはあまり読書を楽しんでいない気がするのだが、同時読みというのも一度やってみようと思う。
あと、読書時間を奪っているのは実はスマホいじり、というのは、たしかに真実。自重しよう。