読書の記録

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文体の科学

2015年02月17日 | 言語・文学論・作家論・読書論

文体の科学

山本貴光

 

 野心に満ちた本である。
 本書は、「文章の科学」ではなくて「文体の科学」である。「文体」とは「配置」であり、その機能は、物質と精神のインターフェースであると見立てる。
 書籍であれ、電子ブックであり、制約された空間での文字の大きさや行間のとりかたがあり、そこに文字が配される。本書で再三強調されるのは、「たとえ同じ文章」であっても、配置が異なれば、つまり文体が異なれば、読み手に違う印象を与える。

 ただ、本書が白眉なのはそれだけではない。実に、上記の意味での「文体」論は、たとえばカリグラフィ論や本の装丁論でも十分に触れられるところである。

 本書は、このような形式上の配置だけでなく、書き手の意志、世界観、書き手が書こうとする対象を支配している文脈やルール、そういったものが、文体という配置の秩序によって、読み手に何をどう与えようとしているのか、およそ「文章」と等価の「文体」にせまろうとしている。

 たとえば「批評文」というものをとりあげている。「批評文」はなぜあるのか。たんに、作者の上から目線のドヤ顔のためにだけあるならば、「批評文」はここまで世界中に普遍化しなかっただろう。
 著者は「批評文」について小林秀雄の言を引用している。「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使って自己を語ることである」。そして、著者の見解としてこうつけたす。「本当は、批評とは書き手にとってなかなかおっかない営みなのではないか、とも思う。なにしろそれは、知的に裸になってみせるようなものであろうから。書かれた批評のことばに、書き手の姿や知のあり方が、否応なく現れてしまうのだから。」
 その裸の激突として、ヨハネ福音書の有名な冒頭「はじめにことばがあった」を批評した2つの偉大なる古典、マルティン・ルターの信仰に根ざした批評文と、理性で徹底的に言葉を重ねたマイスター・エックハルトの批評文を比較検討する。この2つの宇宙のあまりの距離。しかし、どちらも読み手に新たな知的興奮に似た気づきを与える。優れた批評は、たしかに知の地平を広げる。


 ほかにも対話体の文書、法律の文書、植物図鑑の文書、あるいは辞書の世界など、さまざまな「文体」を解題してみて、興味深いのだが、もっとも人間臭い文章として最後に「小説」を検討している。

 「小説」の「文体」とは何か。というのは、これだけで一冊の本になりそうだが、著者はここで、夏目漱石の「文学論」を引っ張り出している。

 文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味す。

 つまり、認識と感情が描かれたものであり、さらにいえばこれに時間と空間の条件が加わる。漱石の論文の中に「文芸の哲学的基礎」というのがあり、人の意識は連続的であり、その中である意識が焦点をつくって明瞭化し、そういったいくつかの明瞭化した意識の点が時間や空間を決め、その統合こそが小説のプロットである、なんてことを言っている。本書によれば、この見立ての下敷きがイギリスの心理学者ロイド・モーガンの意識モデルだそうだ。

 こういった認識と感情、その位相を決める時間と空間の妙として、本書は「吾輩は猫である」をとりあげている。

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ、何でも暗薄いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事だけは記憶して居る…

 
冒頭の数行で、3つの時間的経過が並走していることを著者は読み解く。①読者が読む時間②猫が語る時間③猫の語りのなかで想起される過去の出来事の時間。
 なるほどいわれてみればそうである。漱石に限らず、小説というのは、時間を自在に閉じ込めている。批評や辞典や六法全書に、時間的推移はない。空間的位相もない。

 小説とは、文体によって、時間と空間による位相をはりめぐらし、そこに認識と感情を配置する。ふだんの我々の感情は断片的で無作為的でとりとめがない。そうしたせつな的な感情が、小説を読むとき、こうした小説のプロットによって、あたかも磁力を帯びた鉄片のように、一方向にむかって秩序を持つ。

 文体とは配置であり、そこは著者が描こうとする混沌とした世界から秩序へむかおうとする知恵と知識なのだということがわかる。はじめにことばありき。ことばこそは秩序である。


 ところで、漱石の描く時空間の妙として、僕もひとつ「吾輩は猫である」で挙げたいことがある。
 
 「吾輩は猫である」は冒頭が超有名だが、ではどうやって終わるのか、というのは案外知られていない。

 答えは、酒樽に落ちて死ぬのである。

 で、本書でも指摘する通り、この小説は「吾輩」である「猫」が過去を振り返って語っているのだから、つまり「吾輩」は「現在」死んでいることになる。これもまた空間と時間を自由自在に浮遊させた漱石マジックであろう。(内田百は、だから酒樽に落ちた「吾輩」は死んでいない、という風に解釈して、その後の続編を書いている)。 

 


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