読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

野の古典

2021年03月16日 | 言語・文学論・作家論・読書論
野の古典
 
安田登
紀伊国屋書店
 
 ご多聞にもれず、ぼくも古文や漢文すなわち古典の授業は苦手だった。一度も面白いと思ったことがないまま中学高校を終えたといってもよい。授業は退屈で居眠りばかりしていたから学校のテストはロクなものではなかった。それなのに大学入試ではセンター試験を受験しなければならなくなったため、古典から逃げるわけにはいかなくなった。とても点取り科目にはなれず、最後まで足を引っ張る教科であった。本番のセンター試験結果は過去の模試よりもさらに出来が悪く、結局まったく身につかなかったといってよい。
 こんなの勉強して意味あるの? と学生当時の僕は思っていた。この手のやり玉として古典はちょいちょい標的にされる。
 
 もっとも今の僕は「こんなの勉強して意味あるの?」とは決して思っていない。古文漢文に限らず、三角関数にしろ歴史の年号にしろ化学の周期表にしろ「意味」を見出せるのも見出せないのも本人次第である。学校で習う科目はすべてそうなのだ。そして「意味」を見出せるほうが人生は豊かで楽しくなるとも思っている。
 などと優等生的な回答をしつつも、その古典を学ぶことの「意味」をもっと学校の教師たちは声高に主張すればよかったのに、と思う。この点について僕の中学高校時代、教師が語った記憶がない。実際のところは彼らもそこまで「意味」をつかめず、教えなければならないから教える、文部科学省の指定だから教える、せいぜいが自分は古典が好きだから教えるくらいの心積もりだったのではないかと勘繰りたくなる。
 
 まあ、とは言っても、当時の僕にそんな古典を読むことの「意味」を語っても、たぶん“うっせいわ!”としか思わなかっただろうな。
 
 
 本書のタイトルは「野の古典」。「野の・・」のココロは、学校では習わない題材や切り口に主にフォーカスするという意味だ。学校で習わないと言っても「実は古事記はエロだらけなんだよ」とか「弥次喜多は実はBLなんだよ」とかそういうトリビアな話に終始するわけではない。
 本書では古事記や東海道中膝栗毛のエロ話の他にも伊勢物語や万葉集の男女の駆け引き、平安女流文学の愛憎、平家物語や黒塚の怨霊と鎮魂、好色一代男の卑俗、おくのほそ道の解脱などが紹介される。これらはつまり人間が内面に持つ葛藤や煩悩や弱さや恐れこそが古典の多くを占めることを示している。聖書でいうところの七つの大罪とその悔いみたいなのがまさしく古典の主題であることが多いのだ。古典に限らず、古今東西の芸術に共通することである。
 ところが、学校の教科書で扱う古典の題材は、きわめて毒抜きされているというか、現代の観点からして倫理上いかがなものかというところをばっさりと切って、きれいごとの部分だけアレンジして教材にしてしまったきらいがある。学校の「国語」は国語の面構えをして実は道徳倫理の授業という内面を持っていると指摘したのは小説家の清水義範だ。芸術と道徳はある意味で真反対とも言えるわけで、古典が国語に組み込まれてしまったのはいろいろと不幸なことだったかもしれない。
 
 
 もっとも本書は、そういった古典の芸術性を明らかにしたものかというとそれだけでもない。そういう古典読解本は他にもたくさんある。本書のユニークなところは著者が古代漢字の研究者にして能楽師というところだ。アプローチの仕方がまったく独特なのである。
 
 その観点で特に圧巻なのは孔子の「論語」と世阿弥の「風姿花伝」を解説した章だと思う。
 著者はもともとその「字」がどういう象形文字だったかというところに迫る。そしてそこに込められた複層的な意味を解きほぐす。
 
 たとえば「温故知新」。有名な四字熟語だが出典は「論語」にある。そちらには
 
 温故而知新
 
 と書かれてある。
 
 ここからが面白い。「温故知新」とは通常は「古きを温めて新しきを知る」みたいに読み下され、「古い知識も新しい知見もどっちも大事だ」みたいに解釈されやすい。僕もそう思っていた。しかし、著者に合わせると実はこれは間違いなのだ。
 ここで著者は孔子の時代に思いをはせる。「温」という字は、象形的には「皿の上に何かをいれて蓋をしてぐつぐつ熱している」の意を持つ。そして「故」という字は、現代の「古」に当てはまる漢字だが、これは単にoldという意味ではない。当時にあってこの「古」には幾星霜もの風月を耐え抜いたもの、という意が込められている。つまり時間の試練に耐えた知見である。
 すなわち「温故」とは、いくつもの偉大になる知見をあらためて集めて蓋をしてぐつぐつと煮る行為をイメージするくだりなのである。
 
 それから「而」が来る。
 
 「而」は、学校の授業では置き字とか捨て字ということで「訳さなくてよい字」とされている。
 だけれど、意味もなく文字がそこに置かれているわけはなく、本来的には深淵な世界がこの「而」には込められている。詳細は本書に委ねるが、「而」には時間的経過の意があるそうだ。それも単なる経過ではない。本書では「何かが変容するための魔術的時間」と形容されている。じっと待ちに待ち、じれにじれ、耐えに耐え、そしてついに・・・ というそんな試練的な時間の経過を感じさせる。
 
 そして「知新」とくる。
 「知」とは、現代のKnowとは異なり、この論語の時代にあっては「何かが出現する」という意味が強くこめられていた。確かに「知る」とは自分の目の前になにやらの真実が現れることでもある。「知」とはそれくらいインパクトのあることなのだ。「知新」とは「新しいものが出現する」ことなのである。
 
 すなわち、「温故而知新」とは、
 
 ある問いに直面する。そうしたら、まずは「故(千古不変の知見)」をたくさん探す。そして、それらをぐつぐつ煮る。すると、ある日まったく「新しい」知見や方法が(想像し得なかった変貌を遂げて)出現する。
 
 そういう世界観の言葉なのである。
 
 いやー、感動した。「温故知新」は僕の好きなコトバの一つだったのだが、そんな読み方ができるとは全く知らなかったのである。
 しかもよくよく考えれば、この「温故而知新」は、ジェームズ・ヤングの「アイデアの作り方」とか、外山滋比古の「思考の整理学」などのアイデア発想法にまさに受け継がれているではないか。時空を超えた真理なのである。
 
  こんな説明を当時の教師もしてくれれば、もう少し興味を持っただろうになあ、などと思うが市井の教師には酷な話だろう。こんな解説ができるのも著者の古代漢字の研究者にして能楽師という特異なプロフィールによるところが大きい。古典時代の精神が心技一体になっている言わば古代からの刺客。そんなプロフィールを持つ著者だからこそ、このなにかとデジタルがトランスフォーメーションして教育もSTEAMが重要と言われる令和の時代において古典が読めることの「意味」を説くことに説得力がある。古典を読み、考えることは、「知新」のために必要なプロセスなんだなと納得する。
 
 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« われわれはなぜ嘘つきで自信... | トップ | 東京裏返し 社会学的街歩き... »