読書の記録

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行く先はいつも名著が教えてくれる

2019年02月24日 | 言語・文学論・作家論・読書論

行く先はいつも名著が教えてくれる

秋満吉彦
日本実業出版社


 著者はNHK教育番組「100分de名著」のプロデューサーである。この本では、著者の名著との出会い、名著に救われ名著に背中を押された人生の中での様々なエピソードを、それぞれの本とその作者に最大限の敬意を払いながら書いている。フランクルの「夜と霧」、岡倉天心の「茶の本」、レヴィ=ストロースの「月の裏側」、三木清の「人生論ノート」などが登場する。

 

 しかし、その本を読む前と読んだ後で、もはや違う自分ー新たな地平を得た自分が出現するような、そんな「名著」はやはりそうあるものではない。そういう本の出会いについて、本書では最終章「歎異抄」で触れている。曰く名著とは「情報」ではなく「物語」としてせまってきた本である。

 真の「名著」とは、その本を読んでしまったらもう後戻りできない。「情報」として消費されるのではなく、「物語」として自分と一体化してその後の生き方を変えてしまう本である。ここまでのインパクトを与えるには、本そのもののエネルギーだけでは不十分であって、その本を読んだときの自分の状況、心境、事情その他も多いに関係ある。何事かに追い込まれたときの自分と、その打開を示唆した本、それこそが自分にとっての真の名著である。つまり「名著」に出会うということは”本と自分の相互作用”と言ってよいのである。

 もちろん、多くの人が「自分を変えた本」といって挙げてくる本、言わば”名著率が高い本”というのは確かに実在する。「夜と霧」なんかはその代表例だろう。だからといって誰もが「夜と霧」で人生が変わるということはないだろうし、逆に多くの人がスルーする無名の本でも、当人がそれで変わったのならば、その本はその人にとって名著であろう。

 つまり、名著との邂逅というのはタイミングがある。まして、自分の人生に並走するような、人生のバイブルともなる名著となると、もう滅多なことでは出現しない。

 これは恋愛とまったく同じだ。しかも人生のバイブルともなる「名著」との出会いともなれば、一生の伴侶と出会う愛の奇蹟と同じである。しかし、多くの人が現在の伴侶との出会いを語るに、知らず知らずのうちにそこに出会うようにモノゴトが流れていったかのように感じるように、自分にとっての名著との邂逅も、当時に至る人生の流れの期待にこたえるように一生懸命に生きていたら、やがてその本に出合うことは必然だったという振り返り方も可能だろう。愛の奇蹟がそうであるように。

 

 僕も何冊かそういう自分にとっての「名著」がある。たとえば音楽評論家の故・吉田秀和が書いた「世界のピアニスト」がそうである。

 まごうことなくこの本は僕にとって人生のバイブルになっている。よくキリスト教の信者は、眠る前に聖書の一節を読んでそのことを頭に眠ると言われるが(ホテルのベッドサイドに必ず聖書があるのはそのため)、僕にとってはこの本がそんな位置づけにある。自宅の本棚のほかに会社のデスクの上にも一冊置いていて、朝出社してデスクのパソコンのスイッチを押すと、立ち上げるまでの時間のあいだ(けっこうかかる!)、僕はこの本から適当なところを開いて目に入ったところを数ページ読むのだ。そしてそこに書かれていることを反芻しながら今日の一日を開始するのである。

 僕はこの「世界のピアニスト」でいろいろなものの見方や考え方を学んだ。気に入らないものの受け止め方や赦し方を学んだ。齢をとることの哀しみと偉大さも教わった。双方に矛盾するものの昇華のしかた、外国と日本の感受性の違いと両者の尊重。挑戦すること、守りぬくこと。あいまいのものをあいまいにしない態度、その反対に、あいまいなものをあいまいなものにしておく美意識。そんな人として幸福に生きる術のすべてをこの1冊から学びとったといっても過言ではないのである。教科書やガイド本に出てくる古典名著数十冊分の薫陶を、ぼくはこの文庫1冊で得ることができたと本気で思っている。

 この本に出合ったのは高校1年生のときだ。したがって30年来の付き合いということになる。通算で100回以上は開いた本といっていいが、しかし今もなお新たな気づきがあるし、忘れていたことを思い出させもしてくれるし、落ち込んだときの慰めにもなる。つまり、僕にとって「世界のピアニスト」は、僕の人生の物語そのものになっていて、分離すらできなくなっている。

 

 と、ここまで書いてさてさぞどんなに凄い本かと思われるだろうが、大方のヒトにとって興味も共感も得にくい内容であることは想像に難くない。これはおもに20世紀に活躍した世界のクラシック音楽ピアニストを個別に評論したものである。したがって、クラシック音楽を知らなければなかなか読みにくい本だし、その内容も今から半世紀前の世の中に出されたものだから時代のずれもある

 もちろんクラシック音楽や芸術評論に詳しい人であれば、吉田秀和は大家中の大家であったことに異存はないだろう。彼の評論が広範な教養と美意識を母体とし、その文章の磨かれ方も一級の文芸作品として遜色ないことを認める人も多いと思う。その人柄も切実で人徳にあふれ、しかし中にはつよいパッションを持つ誉れ高き人物であったことに賛同するだろう

 しかし、この「世界のピアニスト」が僕の人生のバイブルとまでになぜ機能するかを僕が他人に一生懸命説明しても、絶対に理解できないだろうし、だいたい”僕ではない人”がこの本が人生のバイブルになりっこないのは僕自身もよくわかるのだ。本書の表現を借りればこの本は「僕一人がためなりけり」だからである。

 最初にこの本を手にすることになった高校1年生のときの経緯がまたきわめて個人的事情だし、その後の自分の人生に折に触れてこの本を開き、そして僕なりの読み方を深め、ついには僕にしかできないような読み方になっていったと思うのである。30年かけて読んでいるようなものだ。この本を僕にとっての「名著」にしたのは僕自身なのである。

 

 今回、「名著が人生を導いてくれる」を読んで、この本自体が「名著」だと感じた。本には確かに人生を導く力がある。そして「名著」をつくるのは読み手自身であることも本書は示唆している。名著とは本と読み手の相互作用で出現するものであることを本書は解き明かしている。


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